【ガチ書評】ロックリー・トーマス著 「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」 第二章
本投稿はロックリー・トーマス著 「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」書評である。
いや、これは書評ではなく解説かもしれない。
今回は第二章「弥助の経歴を紐解く」を取り上げる。
本章の構成は以下のとおりである。
①弥助の登場
②信長の家来としての記録
③信長以外からも信頼を得た弥助
④後世の文献に見られる弥助
⑤弥助をめぐる伝説と推測
今回は章内の見出しに準拠した。
①弥助の登場
ここでは、弥助が人々をどれだけ魅了したかについて書かれている。
冷静に読めば読むほど疑問符が浮かぶ。
イエズス会の書簡では、「堺を出る際には多数の民衆と武士が集った」とある。
著者はそれを、「一般大衆のみならず武士や有力商人も魅了した」と解釈している。そして、堺は当時武士がいなかったから、わざわざ外部から見物するために集まった、と続く。
そう解釈するのは読み手の自由である。
群衆の混乱を最低限にするために外部から武士を呼んだと解釈するのも読み手の自由である。
堺の治安維持部隊を、イエズス会が武士と勘違いしたと解釈するのも読み手の自由である。
しかし。
続くイエズス会の書簡では、その後「多数の武士が同行して必要な馬を供給した」とある。
著者もイエズス会の行列に武士の護衛がつけられたと解釈している。
わざわざ外部から武士が見物に来ていた説を著者自身が打ち消している。
美しい。
イエズス会の書簡には、堺から京都に到着した際は、弥助を見るためにめちゃくちゃな騒ぎになり投石による死傷者が出たと書かれている。
著者はそれを、人々が弥助に魅了されるがあまり、自分の命さえかけたと解釈している。
そう解釈するのは読み手の自由である。
娯楽の少ない当時、珍しいものを一目見ようと群衆があつまり、投石するバカがいたため死傷者が出てしまったと解釈するのも読み手の自由である。
とても自由である。
なにやら色んな感情を抑えるのに苦労するが、そちらは【雑記】の方で発散したい。
さて。
明智光秀が弥助を「獣」と評したことについて、以下のように述べている。ママ引用する。
※「[4]」は脚注
著者の解釈は、「この時代の日本人は黒人に魅了されていたが、明智光秀は違ったよ。ズレてるね」である。
……そうだね、ズレてるね。
後半では弥助を武人とするためにどこ出身であればどんな武器に秀でていたなどを一生懸命書いている。
ここら辺はマニア心を持って書いているようで微笑ましかった。
②信長の家来としての記録
こちらでは、弥助がどれだけ信長を魅了したかについて書かれている。
主に異国や戦争、軍事戦略などを話すことを楽しんだであろう、と著者は推測する。①の後半の武人としての弥助がここでもしっかり生きている。
さらに、信長は実力で弥助を引き立てたこともうなずける、と著者は書いているが、空想と空想に空想を繋げただけなので、空中に指で引いた線のように感じた。
力が強くて芸ができたので信長は気に入った。
それはよい。
人を付けて市内を巡らせた。
著者は、信長の家臣や従者ではなく、「弥助の家臣か従者と市内を周った」と解釈している。
そう思うのは自由だが、市民に知られた信長の家臣と一緒に弥助が市内を周ることで、その所属を一般人に知らしめ、庇護する意図があったとする方が自然に思える。
ただし、弥助が信長に召し抱えられたのち、身の回りの面倒を見てくれる人がいたのは間違いないだろう。一人じゃなにかと不便だし。
弥助を殿にするという者もいた。
これは噂である。信長が弥助を超気に入ったことは間違いないが、「それぐらいオキニだよ」というただの誇張表現であろう。
著者は、一般市民も弥助が信長に目をかけられている、重要視されていると知れ渡っていたとしている。
そろそろツッコミに疲れてきた。
そのあとは、弥助が侍であったことの強い論拠である、
・扶持
・のし付きさや巻き(短刀または太刀)
・私宅
が与えられたとある。この記述は信長公記から来ているが、様々なバージョンがあるなかで、「尊経閣本」というものに書かれているらしい。
これはこういう事実があり、著者はそれをもって弥助が侍であると確信した、と述べるにとどめておく。
申し添えるとすると、「上記の三つが与えられれば必ず侍だ!」という根拠はないし、だからと言って侍でなかったとも言えない。
歴史に埋没しているので、解釈は自由だが、事実とは別で述べるべきだと思う。
③信長以外からも信頼を得た弥助
ここで「家忠日記」が出てくる。
一か所間違いをしておくと、著者は家忠日記に書かれている弥助の信長、六尺二分を一八八cmとしているが、一八二cmである。ちなみに信長の家臣であった柴田勝家は一八五cmである。もっと大きい人物もザラにいたことから、弥助は大きかったが、信長が見たこともないぐらいバカでかかったわけではない。
そして誰から信頼を得ていたかというと、信長の息子の信忠である。本能寺の変の折り、信忠がどこにいるか把握しており、一緒に戦ったから、というのが根拠である。
一人かよ! と思うかもしれないが、信長、イエズス会を除けば一人であるらしい。そうか、一人かぁ。
次には明智光秀が弥助をどう扱ったかが再度書かれ、それが著者としては納得がいかないらしくぶつぶつ言っている印象だ。
最後は明智光秀の言葉である、「獣ゆえ何も知らず」をイエズス会の人は伝聞なのか弥助本人から聞いたのかと不思議がっていた。それを疑うならイエズス会側の本能寺の変の史料全てを疑ってほしい。
都合の悪いことは疑い、都合の良いところは鵜呑みにする。
正常性バイアスは誰でもかかるトラップである。
④後世の文献に見られる弥助
その後のイエズス会側の史料を引用している。
それによると、弥助は縮れ毛の小柄な黒人だと書かれている。
弥助が仕えていたヴァリニャーノがかなり高身長であったので小柄に見えたとか、縮れ毛も他にそういった史料がないからと著者は否定的である。
先ほどと同じ言葉が出てきそうだが、割愛する。
ちなみにこの部分の著者のテンションはかなり低い。
⑤弥助をめぐる伝説と推測
冒頭では、信長の末裔を称する家に伝わる信長のデスマスク(!)は信憑性が低く、難点があると語っている。
要は信長の首を何者かが本能寺から持ち出せたがポイントである。
著者は首を入れる箱が大きくてムリだと言いたいようだが、本能寺にそんなものが都合よくあるわけがない。
ガチなサイズの風呂敷であれば、信長の首をくるりと巻いて体に斜めに結べばボディバッグのように固定できる。
風呂敷ナメんな西洋人。
ではなくて、そもそも焼け落ちる本能寺から妙覚寺まで行けるのは、スネークかアサクリの主人公ぐらいだ。
しかも彼らは何度でもやり直しが利く。
後半では、ものすごく楽しそうに当時の日本人の性生活と、信長と弥助の性生活について語っている。
信長が衆道を嗜んでいたことは有名だが、弥助は立場上信長に求められれば断れなかっただろうと記述している。
頭のなかで例の曲が流れる。まあ大変。
最後に「弥助は間違いなく信長の側近、おそらくは小姓になったことが確認できた」として締めている。
側近……うん。
そうだね、よかったね。
私はツッコミに疲れました。
次は空虚な心を取り直して第三章「現代に伝わる弥助伝説」を取り上げる。
短めの章なので、サクッと書けるといいな。