【ガチ書評】ロックリー・トーマス著 「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」 第五章

本投稿はロックリー・トーマス著 「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」を解説する。
タイトルでは書評と言いつつ解説する。

今回は第五章「弥助はどこから来たのか」を取り上げる。

 書き出しで「弥助がモザンビーク出身であるとする根拠はほとんどない」と語られるが、そもそもこの本に根拠なんてほとんどないのだから、いまさらだろう。

 章のタイトル通り、弥助の出身地について推測したいらしい。
 この本のなかで、一番歴史探偵している箇所だ。
  ※「歴史探偵」という文言に心当たりがない方は第一章を参照してください。
 探偵もなにも、そもそも空虚なハリボテで構成された弥助の出身地を気に掛ける人って……え? アッハイやります。ハイ、承知しました。

 ただし、この章は本当に面白くないので覚悟してほしい。やれって言ったんだから。


 本章の構成は以下のとおりである。

 ①ポルトガル海上帝国と弥助の旅
 ②日本への航海
 ③弥助の出身地
 ④第一の可能性①──イタリア
 ⑤第一の可能性②──ポルトガル
 ⑥第二の可能性──現在のモザンビーク
 ⑦第三の可能性──インド
 ⑧エチオピアでの布教活動
 ⑨弥助の名前の由来


 ①ポルトガル海上帝国と弥助の旅

 ここでは当時のポルトガルの国内外の状況と、ヴァリニャーノと弥助の旅路について語られる。

 ざっくり要約する。
 ポルトガルは当時、世界各地で植民地的な拠点を築いており、ヴァリニャーノと弥助はそういった拠点を経由しつつ、五年程度の時間をかけて日本に到着したらしい。
 以上である。


 ②日本への航海

 ここではイエズス会の一行がどういったルートで日本に到着したか語られる。
 弥助はその間のどこかで合流したとある。最初っからいたかもしれないし、途中からかもしれない。
 当たり前である。


 ③弥助の出身地

 ここから先がこの章の本論である。つまり、地獄である。
 以下の箇条書きにすべて「おそらく」をつけてほしい。
  ・弥助はアフリカにルーツを持つ
  ・生まれは一五五五年か一五五六年に生まれた
  ・真っ黒な肌をしていて、礼儀正しく、ハンサムで、背が高く強靭な体格であった
  ・「弥助」という名は、外国人の名の音に漢字を当てられた
  ・人生のどこかで奴隷であったが、ヴァリニャーノに仕えていたころに奴隷であったかは不明

 どれだけふんわり弥助かわかるであろうか。特に最後の二つは柔軟剤を変えたのかと思うぐらいふんわりしている。

 そして、信長が武士だか護衛だか小姓だかそれらすべてとして召し抱えた事実からすると、ヴァリニャーノも弥助の腕力を見込んでそばに置いたと考えるのが自然、とさらっと書かれる。

 おわかりだろうか、著者の願望をもとに「自然」とのたまっていることが。(倒置法)

 最後に、インド以降で弥助が一行に加わった可能性は低いとある。
 根拠は、インドから先はまともなポルトガルの拠点がなく、護衛なしではヴァリニャーノが仕事ができなかったであろうから、としている。

インドから先はあんまり黒人がいないから、でもいいんじゃないかなぁ。


 ④第一の可能性①──イタリア

 これは、最初っからヴァリニャーノに仕えていた説である。
  ※ヴァリニャーノはイタリア出身であるらしい
 当時のイタリアではアフリカ人奴隷のほとんどが女性であったから、その可能性は低いとしている。


 ⑤第一の可能性②──ポルトガル

 この説は、ポルトガルのアフリカ人奴隷は好戦的な民族があまりいなかったことから、著者は否定的である。
 ちなみに、弥助が武人であったことは一次資料のどこからも読み取れない。


 ⑥第二の可能性──現在のモザンビーク

 ここでは、モザンビーク出身であることは否定できないが、著者の好みではないらしい。
 理由は、モザンビーク出身であればイスラム教徒である可能性が高く、であるのならば、イエズス会はイスラム教徒を嫌っていたことから、奴隷にするとは考えにくいとある。
 後半は、モザンビークの奴隷は勇猛な戦士であることから、弥助はモザンビーク出身であることは否定できないとしている。

 ツッコミは既出であるため控える。


 ⑦第三の可能性──インド

 この本を実際に読んだ方は、おや、と思われた方もいたかもしれない。
 弥助は「カフル人(=アフリカ人)」と呼ばれているからだ。
 ここでは、弥助はアフリカ出身であるが、インドで合流した可能性を指摘している。

 また、著者は戦闘力が高く、忠誠心が高いハブシ(=北アフリカの奴隷)としたいらしい。
 理由? 弥助のイメージにちょうどいいからに決まっている。
 
 さらに、モザンビークやエチオピアの人々はは飢えに苦しみ、発達が阻害されているから弥助の出身地ではないだろうと続く。


 ⑧エチオピアでの布教活動

 まず、「現代のエチオピアのあたり=アビシニア」であることに留意する。
 著者は弥助がアビシニア出身であることは、魅力的だが可能性は低いとしている。

 魅力的である理由は、イエズス会の創始者のロヨラ司祭は、アビシニアの若者を海外で教育を受けさせるよう指示しており、ポルトガル人は現地で結婚して子孫を残していたからかららしい。

 可能性が低い理由は、それを示唆する書簡がないから、である。
 うぅぅぅーん。


 ⑨弥助の名前の由来

 今度は「弥助」と発音が似ている現地を一生懸命探している。
 いろいろと紹介しているが、「世界ふしぎ発見!」で紹介された「ヤスフェ(イスフ)」が一番音が似ている。

 最後は、「弥助の出自がどうであれ云々……」と締めている。
 あ、どうでもいいんですか。そうですか。すべてぶん投げた感がすごい。


 それぞれの説を見るとわかるとおり、たいていの仮説は「弥助が軍事的技能を持っている」ことを前提としている。
 しかし、弥助は活躍した記録がどこにもないことから、戦い方をどこかで習った可能性もあるが、戦い方を習わなかった可能性もおなじくらいある、として解説を締めたい。

次回は第六章「信長の死後の弥助」を取り上げる。


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