俺のART、俺たちのART
こんにちは、コイケタクヤです!
今週末は本来なら「ART」こと第4回阿蘇ラウンドトレイルが開催されている予定でした(コロナにより中止)。一応補足をすると、世界一のカルデラを誇る熊本・阿蘇で開催される、総距離120km・累積標高6,200m・参加者1,200名という西日本最大級のトレイルランニング大会です。実行委員の僕達も本当に残念で、楽しみにしてくれていた選手・ボランティアスタッフ・地域の皆さんには大変申し訳なく、また中止決定後も温かい応援のメッセージを目にするにつけ感謝の気持ちを新たにしてます。
ともあれ大会は中止になり外出自粛も継続中ということで、雨の休日を家でゆっくり過ごしています。開催されていたならばドタバタ・睡眠不足はかなりのもので、それとのギャップを想像すると不思議な思いです。
これまで僕自身がこの大会を改めて振り返ったことがなかったような気がして、今回は備忘のために書いてみようと思います。
嫌いだったART
企画が始まった2015年頃、当時所属していたUFの高木社長の周りから噂は聞いていました。椎山さん(スカイトレイル=ST)らと企画を練り、調査に行っていることも主にSNSで見知っていました。
しかし同じ社内で仕事をしている僕達になかなか話が下りてこない。僕はトレイルランに携わるために東京から宮崎に来ました。入社して1年が過ぎ、大会運営にも多少の経験と自信を得てきた頃でした。それなのに、九州を代表する大会になるであろう阿蘇の企画について協力を求められないのは寂しいことでした。また僕の方もつまらないプライドが邪魔をして、「手伝いたい」と言い出すことができませんでした。
16年4月にプレイベント(プレ大会)が実施されましたが、結局僕はこれに関わることはありませんでした。プレ大会は様々なトラブルやエピソードを残しつつ終了。このときのことは今も参加したランナーの間で語り草ですが、僕はそれを聞くたびに寂しさが蘇ります。
社長が調査やプレ大会に僕達を関わらせなかったのは、社員の休日を確保するためだったり、プレ大会という不完全な事業に社員を巻き込みたくないという思いやりだったと今では思えます。ただ当時の僕はそれを受け入れることができませんでした。
正直に言います。僕はARTが嫌いでした。
転機になった第1回大会
熊本地震を経た翌17年5月に、正式な第1回大会が開催されることになりました。距離は現在よりやや短い109km、募集人数はロングのみの300名と設定されました。
UFは前年から新しいメンバーが増え、8名の大所帯になっていました。その当時熊本事務所のリーダーだった佐藤が中心になり、コースの許可申請や地域行政・団体との調整をやり直すことになりました。どこか人ごとだった僕も、事前調整のため熊本・阿蘇に出張することが多くなりました。
僕が担当したのは許可申請のほんの一部ですが、その難しさは想像以上でした。当初コースに予定していた根子岳が環境省の指導で通行できなくなり、急遽根子岳を迂回するコースの調査・調整が必要になったこともその一つです。
まずは地形図を元に通れそうなルートに目途をつけ、その地権者を特定するために森林管理署に通います。土地所有は複雑で、わずか数百メートルの山林を通過するために10名以上の地権者がいる場合もあります。また分かるのは名前だけで、それがどこの誰だか分からないことも少なくありません。森林管理署の関係者や近所の家々を聞き回って情報を集めますが、地権者が既に亡くなっていたり、遠方に転居されている場合もあります。東京に住む故人のご家族の電話番号を探し当て、電話で事情を説明して許諾を得るなど、地道な作業が続きました。そうして繋がったのが大会のコースです。
大会直前から当日にかけてはドタバタが続きました。GW返上で準備に当たったものの、悪天候の影響でコース整備やマーキングテープの設置もギリギリ。物品の準備やボランティアスタッフの割り振りも直前まで調整が続きました。UFのメンバーが増えたといっても、大会の拠点やエイドステーションの数はそれ以上。私も連続する3つのエリアリーダーを兼任することになりました。(これはさすがに無理でした笑)
当日、3つのエリアを担当頂くボランティアスタッフの方々が、拠点の一つであるAS4高森町民体育館に集まりました。人数は延べ50名ほど。事前の連絡・調整が十分でなかったこともあり、誘導場所の案内やエイドステーションの運営方法などを順に説明する必要がありました。自然と後半のエリアの方々が後回しになってしまい、「いつになったら説明が始まるんだ!」という叱責を何度も頂きました。僕はほとんど頭が真っ白になりながら、そのたびに頭を下げ、みっともなく動き続けました。
結果として担当エリアの運営は滞りなく進み、選手達は無事に通過していきました。その間の記憶はほとんどありません。押し寄せる選手・情報を捌き、ボランティアスタッフの皆さんに笑顔を繕い、どこかでトラブルが起きるかもしれないという不安を慌ただしく動き回ることで打ち消そうとした時間だったように思います。無事に済んだのは、ひとえにスタッフの皆さんの機転と献身のお陰です。
心身共に打ちのめされましたが、報われたことが3つあります。
一つ目は、参加者の皆さんがちゃんとフィニッシュ地点に辿り着いてくれたこと。当たり前のようですが、コース調整の苦労や直前~当日のドタバタを思えば、奇跡のようにも思えました。私は見られなかったのですが、トップ選手のライトの明かりが最後の俵山の頂上から見えた時(時刻は夜8時過ぎ)、麓のスタッフは感動で震えたそうです。ラウンド(円・縁)がつながった瞬間でした。
二つ目は、当日僕の担当エリアでボランティアとして参加して下さり、「いつになったら-!」と叱責を下さった方から後日、「あの時は申し訳なかった。感動した。ボランティアとして参加して良かった。」とお言葉を頂いたこと。スタッフ運営については反省しきりだっただけに、救われた気持ちになりました。
三つめは大切な仲間を再認識できたこと。UFという会社は個人の裁量に任せられる部分が大きい反面、それまであまりチームで仕事をしたという実感がありませんでした。この時は確実に「チームで一つの仕事を成し遂げた」という充実感がありました。
第1回大会は反省だらけでしたが、僕のそれまでの屈折した思いは、「日本を代表する大会に携わっている」という自信と誇りに少しずつ変わっていきました。
現在、そして未来へ
18年の第2回、19年の第3回大会を経て大会は確実に成長してきました。有難いことに参加者は1000人を優に超え、雑誌の人気投票でも全国の大会のトップ5に入りました。エントリーは1日で定員に達する満員御礼状態が続いています。ひとえに阿蘇の自然と、ご理解・ご協力を頂く地域の方々、ボランティアスタッフの皆さんのお陰です。
我々運営側も努力を重ねていますが、まだまだ対外的な人気・評価にクオリティが追い付いていないというの実感です。「西日本最大規模の大会」ではあっても、「西日本最高の大会」ではない。運営体制も脱皮というか、次のステップに進まなければならない局面に来ています。
今年僕が佐藤と共に独立したのは当初から意図したことではなく、奇縁という他ありません。そんな僕たちを改めて実行委員会に迎えて下さった、実行委員長の高木さん、副実行委員長の椎山さんには心から感謝しています。手前味噌ですが、この変化は実行委員会がより開かれたものになり、ARTが九州の全トレイルランナーの共有財産として世界に誇る大会に成長するために、重要な一歩じゃないかと思っています。
今年が中止になった分、来年の大会に寄せられる期待は大きい。それに応えるためには、全九州の皆さんと一緒に大会を創っていくことが必要だと思っています。皆さんに気持ちよく参加頂ける態勢を整えることが僕たちの仕事です。
世界に誇る「俺たちのART」、一緒に創っていきませんか?
(写真はいずれもSHO FUJIMAKI。主に大会webサイトより転載)