20220304
乃木坂46公式から3月3日に一定の声明が出たのですが、やはり演者当人が幾重にも多大なものを背負わされている、この状況の(「このジャンルの」と書くべきか、「この運営の」なのか、「メディアやファンダムの」なのか、おそらくそのすべてでしょう)罪深さを思わないわけにはいきません。
本来ならば踏み込まれる必然などないはずの過去のプライベート領域について、自らの証を立てるように当人が細かく開示せねばならず、そのうえで遡及的に謝罪の言葉をつづる事態になっている。ただでさえ、流言混じりの詮索は広まってしまえば是正も沈静化も難しく、その収拾を担わざるを得ないのもまた、人格を毀損された当の本人です。
エンターテインメントを享受する人々がそれぞれの内心で、対象になにがしかの理想像を託そうとする欲求は不可避でしょうし、心の移ろいなどはコントロールしきれるものでもないでしょう。また、個々人の過去の歩みがすべて正しさとともにあるわけではないですから、それらまでを逐一積極的に肯定してみせる必要もない。そこには葛藤があって自然です。私自身、複数の位相の問題が交錯している今回の件を、綺麗に整理できているとも、軽々に単純な図式にまとめられるとも、思いません。
けれども、現在生じているのは、「あるべき姿」のようなものを要求する言葉と、何かをあばこうとする欲求とが結び合いながら、当人に対する流言混じりの詮索やそれらをよりどころにした中傷が大量に発信され、無軌道に拡大していく事態です。それが放置されること、あるいはときに規範意識めいた感覚とともにその所業が正当化されていくことは、やはり看過しがたい。繰り返しますが、それらの喧騒の結果を際限なく背負わされるのは、生身の人間であるアイドル当人です。
そもそも、アイドルというジャンル内で実質的に存在してき(てしまっ)た規範のようなものはそれ自体、かなりいびつな行動規制を当事者たちに強いてきました。送り手と受け手双方がそれら規範を意識的・無意識的に内面化したまま一番の当事者であるアイドル自身を抑圧するような事象も、幾度も起きてきました。そんないびつさに乗っかりながら不必要にスキャンダラスな色付けを施してきたメディアは、今回も同様に、センセーショナルなワードを用いながら、あばきの欲望を肥大化させているように見えます。こうした報道にはまた、いたずらに詮索されてきたような当該の事象を、あくまで女性の側の行動として表象しつつ、一方でマスメディアを通じて騒ぎに加担する男性の側については、匿名的かつ傍観者のように提示するという、構図としての(これに類するトピックで繰り返されてきた)不均衡が横たわってもいます。
アイドルは演者たち自身のパーソナリティが訴求力になりやすいジャンルですし、今日のメディア環境はいっそう、当人たちの活動時間と私的時間との境界を曖昧にしてゆきます。そうした性格のエンターテインメントを担っているからこそ尚更、グループを運営する機関が継続的に意思を発信し、演者自身のプライベート領域の保護について姿勢を表明することは必須でしょう。それはまた、何か明白なトラブルが起きたときだけでなく、日常的ないとなみのうちに示されるものであるべきだと思います。その日常的な発信、何をなして何をなさないのかといった一つ一つは必然的に、グループが社会に対して発する(良い意味でも悪い意味でも)価値観の提示であり、メッセージになります。
同時にこの文化を、このグループを、個々のメンバーの活動をいかに持続可能なものにしていくのか、世の中にどのようなものとして位置づけていくのか、演者自身をいかに一人の人間として尊重していくのか、それらは受け手側の振る舞いにかかってもいます。何より怖いのは、生身の人格にすべての理不尽な負荷を引き受けさせることへの無頓着さです。