欅坂46ドキュメンタリーのこと
遅まきながら、欅坂46のドキュメンタリー映画『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』(監督:高橋栄樹)を少し前に観ていました。機を逸した感はありますが、過去の物語として流れていってしまう前に書き留めておいたほうがいいなと思いまして。
このドキュメンタリーは、おおよそ欅坂46のデビュー前後から今年半ばまでの歴史を追尾していますが、多岐にわたるメンバーの活動のうち、どの側面にクローズアップするかを相当に限定した作品になっています。すなわち、使用されるフッテージはライブやMV撮影等、直接的に楽曲パフォーマンスにかかわる瞬間およびその前後のものが大半を占めている。対象範囲が絞られたことで、映画がたどる道筋や、何を捉えたいのかということもシンプルになっていたように思います。
その道筋の先にみえてくる問題提起は、決して心地よいものではありません。作中で印象的に二度使用されるシーン(あまり具体的に記述したくはない、事故の瞬間を捉えた映像です)は、活動が進行する中で組織がいかなる無理をきたしていったのかを、シンボリックにあらわしています。
当該シーンの直前には、メンバーがライブの舞台裏であからさまな疲弊を露呈する映像が映し出されます。グループアイドルのドキュメンタリーにおいて身も蓋もなく疲弊が映し出されるさまは、主として2010年代前半に発表された、まさに高橋栄樹氏が監督を務めるAKB48のドキュメンタリー映画群によって、すでに既視感のあるものです。
さらにいえば、それが「既視」であるのは、形式上は舞台裏であるはずの時間や場所に常に複数のカメラが入り、いつ公開されるとも知れない映像が記録され続ける環境が、2010年代のグループアイドルにとって当たり前のものになっているためでもあります。常にカメラに取り巻かれ、オン/オフを明確に区切ることの難しい(いかようにコンテンツ化されるかわからない)日常をメンバーたちが引き受けているということに関して言えば、そこに映っているものが真摯に表現を追求する姿であれ、理不尽な重荷を背負わされている姿であれ、互いを尊重し合う慈愛に満ちた姿であれ、変わりはありません。
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ともあれ、あからさまな疲弊や重圧を背負う姿が、それでもなお従来のドキュメンタリーで目にしてきた光景と若干異なる印象を与えるのだとすれば、あるいは欅坂46というグループに「アイドルという枠を超えた」的な(それ自体、アイドルシーンにおいて手垢のついた)イメージが付与されやすかったのだとすれば、その負荷のありかが主として「楽曲パフォーマンス」に収斂するもの(に見えやすい)だからということはあるのかなと。
過去、高橋氏が手がけてきたドキュメンタリー映画であらわになる疲弊のなかには、ライブシーンに関わる組織的な失態にまつわるものもありますが、同時に選抜総選挙に代表されるようなイベントがメンバー全体に課す、不条理な負荷によるものもありました。グループに恣意的な地殻変動を起こすためのイベントが、明らかにメンバーの心身に大きな負担をかけているさまはいかにも理不尽な光景でしたし、それゆえに組織運営のあり方についての問題提起力を持っていたと思います。
他方、本作が意識的に切り取るように、主として楽曲パフォーマンスに直接的に関わる部分に世間的なインパクトが収斂しやすかった欅坂46の場合、メンバーたちの疲弊がある程度まで「ストイックに表現を追求する姿」として受け取られやすい面を持っていたように思います。そのぶん、追い詰められている姿もまたアーティストの「物語」に組み込まれ、熱狂が加速しやすくもあったのがここ何年かではないかと。
今日メジャーフィールドで活動する多人数アイドルグループの場合、多種多様な場でアイコンを演じ続けることを職能とし、その中で個々人が己の適性を探り当てていきます。活動が多様であるため、楽曲パフォーマンス(のうちの特定のベクトル)のみを「アイドル」の評価軸にすると多くのものをとりこぼしてはしまうのですが、それでもやはり楽曲パフォーマンスはわかりやすく「表現」としての正統性を付与されています。言い換えれば、そこに見かけ上の「アーティストらしさ」が最も託されている。
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諸々の疲弊が「ストイックな表現の追求」として解釈されることで、それはより感動譚的に消費されやすくなっていきます。
これは非常にあやういことでもあるわけで。
ドキュメンタリー中、欅坂46の振付や演出を担当するTAKAHIRO(上野隆博)氏はインタビューに応えて、欅坂46メンバーを“背負い人”と表現していました。この言葉は、彼女たちが担う楽曲テーマが社会の一側面、あるいは当人たち自身の状況と重なり合うことに関連して発されたものです。
“背負い人”とは、一方では欅坂46メンバーにいかにもヒロイックなイメージを投影するフレーズでもあります。他方、この言葉で指し示されているのは、欅坂46の上演内容が単にフィクションの水準として独立するものでなく、演者たち自身のパーソナリティあるいは欅坂46の中で抱えている状況と多分に共振してしまうということでもある。
そして、このグループにおいて演者たちが引き受けていた状況とは、あらためてドキュメンタリーで跡づけるまでもなく、傍目にもポジティブなものとは言い難かったわけです。
メンバー間の著しい不均衡を前提にしたスタイルが自明のものとして温存されたまま、必然的に閉塞感を強めていく。そのこと自体、数十人規模のグループにあって、各々が個人のキャリアを開拓するためにその場に集っていることを考えれば、非常にいびつな状態です。あるいは、数十人規模のグループであるにもかかわらず、人員の代替不可能性が著しく高くなり、その状況自体がまたメンバー個々の存在を否定するようにも作用してしまう。その偏ったバランスの解消をいかに意識できるかは、運営する側の課題(であるべき)だったはずです。
けれども、“背負い人”という語で言い表された欅坂46の実践は、その閉塞した空気自体までも己の作品の内に読み込むようなものになっていきます。自身に直接紐付いたネガティブな状況までを演者が“背負う”ことになり、それを自ら表現として、また商品として体現しなければならない。
作品と演者とのそうした二重写しがエモーションを喚起しやすいこともまた必定で(それが体感的にわかっているから、作詞家としての秋元康氏は48グループにおいても坂道シリーズにおいても、しばしば演者にベタにシンクロするような詞をあてるのでしょうし)、だからこそ、人格の著しい消費と裏腹のその“おいしさ”に、軽々に手を伸ばしていい局面なのか否かをはかる倫理は持っておかないとまずいのではないかと思います。
また本作では触れられていない部分ですが、パーソナリティの消費に関わる事象について言えば、一人一人の人格として尊重されるべき欅坂46のメンバーのプライベートが暴かれ詮索され、あまつさえ理不尽に「スキャンダル」化されて、不条理な責めを負うようなことも数年にわたって生じていたわけです。このグループが、きわめて良くない意味で旧来の“アイドルらしい”慣習に取り巻かれ、内面化してしまっていたとも言える。これもまた、複合的に閉塞感を強める要素として作用していたでしょう。
映画後半に配置されたとあるライブシーンは、楽曲パフォーマンスの面で言えば、間違いなくハイライトになるものでした。欅坂46が演劇的なパフォーマンスの基盤を固めてきたことが確かに実感できますし、本作の音楽映画としての側面を象徴する場面です。
そのパフォーマンスに素直に陶酔できたならば、どんなによかっただろうか。凄みを受け取ることはできても、これに無邪気に心地よさを見出すことは難しい。
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ドキュメンタリー後半、監督である高橋氏の“声”が最も明確に聞きとれるのは、TAKAHIRO氏へのインタビューシーンのとある一節です。ここで彼がTAKAHIRO氏に向けて問うのは、「大人の責任とは何か?」でした。
この問いに対するTAKAHIRO氏の回答は、いかにも呑気に映ります。この居心地悪さはまた、どうしたって人格を消費することと不可分な類のエンターテインメントに触れる以上、私たちにも返ってくるわけで。
もちろん、組織がバランスを著しく欠いたまま行き詰まりを迎えていくさまを丹念に描いた末にこの問答が挿入されれば、本作の文脈上TAKAHIRO氏がことさらに無頓着な大人の代表として位置づけられやすくはなります。独立したインタビュー素材としては、そうした文脈をどこまで前提にした取材だったのかはわかりません。もっと言えば、この問いを最も突きつけられねばならないのは、TAKAHIRO氏ではないはずです。
高橋監督は、これまで手がけてきたドキュメンタリーと同じく、自身が焦点化する問題のありかをあからさまに説明するわけではありません。けれど、ともかくもこの作品が提起する問いは普遍的に省みられねばならないし、他人事にしてはいけないのだろうと思います。
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組織のバランスとして抱え続けていた問題とはまた別として、今年夏以降に欅坂46が配信してきたオンラインライブについて言えば、空間の使い方や切り取り方、あるいは群像としての表現のありようは、グループが積み重ねてきた財産の豊かさを確かに示すものだったと思います。
欅坂46が作ってきた表現や存在のあり方については以前こちらに寄稿しました。
また今年刊行の拙著でもう少し掘り下げていますのでご興味がありましたら。
先のドキュメンタリーでも、デビュー前後の時期からの足跡を追うなかであらためて確認できるのは、欅坂46がごく初期の段階から立体的、演劇的な表現のフォーマットを確立していたことでした。仕切り直しではあれ、その稀有な組織的財産を持っていることは大きな強みです。改名後の櫻坂46としてこれから描かれる軌跡が、幸の多いものであってほしいなと願います(ただ、憧憬の的であり諸々の矢面に立つ櫻坂46メンバーたちに、「Nobody's fault」というフレーズを担ってもらうのは狡いのではないかと思います)。