どうして大人になると「没頭」することができなくなるのか?
仮説。
何かに没頭することは誰にでもできる。
正確に言えば、「出来た。」 かもしれない。
何をやっていいかわからない、やりたいことが見つからない。
そういう大人は沢山いる。
子供でも沢山いるかも知れない。
だけど本来、僕らは幼稚園、小学校低学年頃までは好きなことに没頭していたのではないか?
どうしてそれをやらなくなったのか、できなくなったのか?
その理由をよく考え、自分の事を振り返ってみるといいと思う。
その理由は簡単だけど、それがわかったならば、同じことを、子供に対してやらないこと。
親から叱られた?
先生から注意された?
クラスメートから苦情が出た?
自分は叱られてなくても、目立って叱られている兄弟や友達を見て、ああしたら叱られるからやらないようにしようと自粛するようになった。
僕の場合は、これに該当していると思った。
そのうち、自分がやりたかったことも忘れ、(奥底に仕舞われて)
常識という名のシステムの中に組み込まれ、そのことすら意識することはない。
本来の力を奪われた、ないしは自分自身で封印した、そんな状態なのではないか。
そこに成長期の欲求を満たせないまま大人になり、いざ「自分は何をしたいのか?」自身に問うた時に、答えが見えなくなってしまう。
だからこそ、没頭して、フローに入って、自分のやりたいをとことん満たすという経験が幼少期には本当に大切だと思う。
この経験が当たり前になっているからこそ、興味関心を自分自身でどんどん深めていく生き方ができるようになる。
人の目を過度に気にすることなく、自分の頭で考え、切り開いていく力を持っている。
子供が、自由奔放に発想し、時には煩わしいとも、めんどくさいとも思える行動も、そういう自身の欲求に忠実に、そして、フローに入るプロセスの一環だと捉えることができれば、少し離れたところから「見守る」ことが少しはできるようになれるかもしれない。
そして、自身の幼少期と重ねて子供と向き合うことで、自身の幼少期の欲求の欠落を満たしていくとができると思う。
そして、再びかつての様に没頭する体験を積み重ねていけるようになる? かもしれない。
そんな経験をしている真っ最中。