twitter裏紙論

僕にとってtwitterは、しょせんコミュニケーションの道具の一つでしかないと思っています。
世の中には誰かとコミュニケーションをとる手段がたくさんあります。
電話、メール、LINE、掲示板、ブログ、、、
一番は直接会うことかもしれませんが、いずれにせよそういったものの一つでしかない、と。

足し算でも引き算でも、何か計算をしろと言われたとします。
僕の場合は、パソコンが手元にあればExcelを使います。
なかったらスマホの計算機。
簡単なものなら筆算や暗算で済ますかもしれません。

道具は道具でしかない。
目的によらず同じ道具を使おうとするのは愚策で、目的や状況に合わせてちょうどよい道具を選ぶのが適切なのでしょう。

話をtwitterに戻します。
電話やメールって、いろいろと暗黙のルールがあって、いわば原稿用紙のようなきっちりした道具だと思うわけです。
ではtwitterはなんだろうか。

ずばり、山積みにされた裏紙ではないでしょうか。
誰がいつ、何を、どれだけ書いてもいい。
そのくらい自由な道具がtwitterです。
いや、それがtwitterだった、のほうが正しいのかもしれない。

twitterを裏紙ではなく、きっちりとしたツールとして扱う動きがどんどん増えてきた。
トレンドを使った分析、マーケティング、政治的活動。
もちろんtwitterはそういう使い方「も」できる。
ただ、そういう使い方「だけが」できるわけではない。

twitterで商売や政治の話をしたりするのは全然いい。
普段マンガの話ばかりしているクラスメートと、なぜか突然「今日のニュースさ…」みたいな真面目な話が始まることがあるように。
ただ、それを原稿用紙のようなきっちりとしたものとして扱われるとしたら、僕らは迂闊に書き残すことができなくなる。

だから、twitterが特別なものであるような、何かを代表するようなものとして扱う動きを見るたびに、僕はすごく嫌だなと思う。
これはしょせん、裏紙に書かれた戯言だぞ、と思うわけで。

もちろん何か言いすぎたり、出しちゃいけないことをツイートすればアカウントを消されるとかはあった。
裏紙をはみ出して机にも線を書いたら怒られるようなもんです。
だけど最近の動きは、後から来た人たちがtwitterをどんどん原稿用紙化している気がするわけです。
何かのためだけの道具とするために。

正直に言うと、誹謗中傷の議論ですら危ういと思ってます。
行き過ぎた批判に対して何らかの対応が必要、というのはわかる。
一方で、自分に都合の悪いものばかりを誹謗中傷だとして攻撃する、いわばクレーマーのような存在が出てくることも十分考えられる。

これは偏見だけど、何らかの規制を掛けようとする人は、自分は絶対に規制されない立場から議論していると思っている。
ゲームを規制した某県議会のように。
公園でのボール遊びを批判する近隣住民のように。

ただこの誹謗中傷論、回り回って全員がつぶしあう状態になるんじゃないかなって気がする。
自分は大丈夫、と思っていたことを他の人に告発されるみたいな、一種の過剰防衛で。
twitterでもそんな動きが既に出ているように思う。

結論としては、僕はこの先もtwitterを裏紙にしていたいだけ。
自由に好きなことつぶやいて調べて、だけど誰かを傷つけることはしないように。
好きな人たちで裏紙を回しあう遊び場であってほしいだけ。
だから後からやってきて、twitterの道具としての性質を考えない方たちにこの世界を奪われないといいなぁ、と思う今日この頃なのです。