ポップコーンは買わない派です。vol.50
ジョン・F・ドノヴァンの死と生
死を持って明かされる生の真実ってどうなのよ。
予告編
あらすじ
2006年、ニューヨーク。人気俳優のジョン・F・ドノヴァンが29歳の若さでこの世を去る。自殺か事故か、あるいは事件か、謎に包まれた死の真相について、鍵を握っていたのは11歳の少年ルパート・ターナーだった。10年後、新進俳優として注目される存在となっていたルパートは、ジョンと交わしていた100通以上の手紙を1冊の本として出版。さらには、著名なジャーナリストの取材を受けて、すべてを明らかにすると宣言するのだが……。
俳優と交わした文通
ファンレターって送ったことありますか?
好きな俳優や女優アーティストなど、書いた経験がある方もいるのではないでしょうか。その憧れの人物と文通ができたとしたら。人に自慢するでしょうか。
僕だったら逆にできないかもしれません。気が小さいのもあるでしょうが、本当に文通ができたとしたかなりびっくりしてしまうからです。
この作品は監督のグザビエ・ドラン自身がレオナルドディカプリオに手紙を送ったところから着想を得たもので、ファンの少年と孤独な俳優との文通には、そこ書かれていることだけは本音があったように思えた。
本音って近い人にほど打ち明け辛くないか
皆さんは本音って誰にだったら打ち明けられます?
本音というか悩み事とかの事をいうのかな?そういった事を打ち明けられる人っていますか?
僕は必ずしも近くにいる人にこそ自分が自分らしくいられたり、悩みを打ち明けられるわけではないと思うし、必ずどこかで自分を押し殺して自分を演じている人が多いと思うんだよなあ。
この話の主人公であるジョンFドノヴァンは有名な俳優である。俳優は様々なペルソナを演じ分ける仕事。つまりは自分以外になりきるのが仕事になる。そんな演技の中で俳優や女優って人格を決められがちじゃないですか?
プライベートまで監視されて、イメージと異なることをしてしまうとすぐさま世間に広がり、イメージが上がる場合もあるが、ギャップによっては下がってしまう事があると思う。少なくともそれが大きなストレスになっている人も多いのではないかと思う。ましてや性的少数者という考え方はあまり好きではありませんが、そういった人の場合はもっと辛い思いをしている人もいるのではないかと考えています。
そういった本性を隠して生きていく習性があったからか、大切な人に対しても言動で傷つけ、それによって自分自身も苦しむことになってしまうのはとても辛いことだと思います。
ドノヴァンとルパートとの間で交わされた約束、それは「いつか僕たちの真実を語って欲しい」というドノヴァンからの遺言とも取れるやりとり。それをルパートは時をへて、本として公開されます。
取材を担当した記者ははじめただの暴露本かと思っていたそうだが、実はもっとセンセーショナルな内容が詰め込まれていることにルパートの回想から気づく事ができていたようでした。まるでドノヴァンの分身のようにも見えてくるルパートの姿。それは観客も鑑賞体験として模擬的なリアルとして体験することができると思います。
最終的には希望の残る終わり方をする本作ですが、あくまで物語としての面白さはあるけれど、なかなか共感できる部分は少なかったと感じたなあ。
ただ映像や音楽がとてもエモーショナルです。とても表面的だけど事実です。
分人という考え方
でもわかるのは、友人への態度と家族への態度と恋人への態度って全然違う自分の姿がそこにあると思っていて、本当に素でいられることなんてないと思うし、その人に対しての対応がある意味素でいられていると思うのです。
これは最近好きになった小説家の平野啓一郎さんの本を読んでそのように考えました。分人という考え方です。
詳しくはこちらの本でご確認ください。
自分は個人として一貫していなければならないという呪縛から解き放たれた時、もっと生きやすくなるのではないかと思うのです。変化に肯定的になるというか。
一人一人がこのように考えられればいいと思うんだけどね。
この作品でもドノヴァンとルパートの関係、ルパートと母親との関係、ドノヴァンとファンとの関係、それぞれで対面する分人が異なる。ルパートとの関係のような分人が多く存在すればドノヴァンも生きていたかもしれないと思うとなかなかやるせない気持ちになる。
最後に
死を持って明かされるというのはインパクトでかいと思うしそこから事が進むこともあるのではないかと思うけれども、小説家でもそういうことで体現する人もいたかもしれない。でもあまりよくはないような気がする。だからこそ、どう生きるかを苦しむ方向ではなく自分がよりよく、周りも幸せになるには自己犠牲だけではないという事を考えていきたいものです。