ポップコーンは買わない派です。vol.68
幸福なラザロ
信用を得るには純粋すぎるくらいに相手を信用する
予告編
あらすじ
20世紀後半、社会と隔絶したイタリア中部の小さな村で、純朴な青年ラザロと村人たちは領主の侯爵夫人から小作制度の廃止も知らされず、昔のままタダ働きをさせられていた。ところが夫人の息子タンクレディが起こした誘拐騒ぎを発端に、夫人の搾取の実態が村人たちに知られることとなる。これをきっかけに村人たちは外の世界へと出て行くのだが、ラザロだけは村に留まり……。
この世の人間はみんな疑う
この話の主人公はラザロという少年。
彼は聖書にも登場する聖人ラザロと同名であり、全ての物事に対して純粋に受け止め、何に対しても文句を言わずに働く村では頼りにされつつも純粋すぎるその姿に白い目を向けてられているもの事実だ。
ラザロはそれに対しても気にすることはない。
そこまで純粋すぎるとサイコパスな感じが否めないというか、みているこちらとしても非常に違和感を覚える登場人物である。
このラザロを介して訴えかけられるものがなんとも考えさせられる。
それはどういうことか。
ラザロはこの映画を通して
人間を信じることの尊さを感じることができる。
信じることの尊さってなんだって思うかもしれない、先ほども行ったようにラザロという人間はめちゃくちゃ純粋で、誰のいうことも疑うことなく信じてその通りに従う。
そんなラザロを貶めようとする村人もいたりする。
それにまんまとはまってしまっているラザロを見ると馬鹿なんじゃないかって思うところもある。もっと疑えよ、明らか貶めようとしてるじゃん。って思うわけで。。
あれ、完全に今の俺は人を疑ってかかっている人間だということがわかりましたね。
こういう風に人を疑うということを普通にやってきているからラザロに対してかなり違和感を持ってしまうのだ。
もっともこの世に生きる人間は騙しあって生きていることがよくわかる。
いかに個人が重要で、共同体としてのコミュニティは全く機能しなくなっているのだ。
かつての田舎でよくみられるコミュニティにはそういった疑いや騙し合いなどはなかったはず、お互い様、助け合い、こいったフレーズを言わなくても自然にそのように行動していた。コミュニティの中では疑いをかけることはなかったはずなのに。
この映画は冒頭のあらすじにもあるように、奴隷制度の廃止があったのにも関わらず、昔のままのただ働きをさせられていた農民とその領主の侯爵夫人との関係がある。
疑い、騙し合わないと成り立たない世界線
その領主の侯爵夫人が捕まって、農民たちはかくかくしかじか都市部の方に移動する。
そこでの生活の方が遥かに大変で、社会と隔絶していた農民たちにとってはお金も教養もないために今日を生きるのがやっとという具合だ。
そのために軽犯罪を犯して食糧を手にいれ食いつなぐという生活。
そういった疑い、騙し、ということは知っている農民たちはなんとか最底辺として生きているが、ラザロは全く通用しない。
同じように軽犯罪を行うにしても全くうまくいかない。失敗続き。
これってラザロが悪いの?農民が悪いの?それとも侯爵夫人?
いや、社会の仕組みではないのか?
仕組みを全て否定したいのではない。悪いところを直していくべきだと思う。
この映画はイタリアの映画なのだが、イタリアの映画の特徴の一つとして新聞記事の一部が原作になっているものがあったりする。それがこの作品で、実話を基にしている。
実話にファンタジーを交えながら社会の問題点を人々に問いを投げかけるスタイル。
ネオ・ネオリアリズモと呼ぶらしい。
評価も高いのでぜひみて欲しいと思う。
純粋すぎるぐらいの方が世の中を変えていけるのかも
貧困層にフォーカスされた本作。
全世界的に貧困は減ってきている。多いのは中間層。というデータを示したヒット本がありますね。
確かに少なくはなってきている。貧困の層は。でも、0じゃない。これって0にできないもんなのかな?
いつかは0になるのかな。
豊かな人が貧しい人に富を回すことって本当にできてるのかな。
自分がするには何から始めたらいいのかな。
世界の貧困をなくしたい!
そういったことを念頭におくと自分の行動も変わっていくはず。
ラザロのように純粋すぎるぐらいが世の中を変えるきっかけになるのかもしれません。