学問の競技化について (『Informatics Creators Magazine』 No.30より)
・情報オリンピック日本委員会発行 『Informatics Creators Magazine』(旧『Informatics Creator's Magazine』)No.30(2021年4月26日)のコーナー『トップリーダーから君へ』に掲載していただいたエッセイです。一部を修正・改変しています。
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・情報オリンピックという競技と「クイズの競技的な側面」とのリンク、という視点から、学問の一部を題材とした競技が直面する問題について綴った文章になります。
中高生の情報オリンピック挑戦者をターゲットとしたメッセージである、という前提でお読みください。
・今更思い出しましたが、この原稿を書いた時点ではまだ出版していなかった拙著『クイズ思考の解体』にて、競技的なクイズも実は一問一答的な思考にとどまらない、ということを述べました。推察し、答える上では複数の知識を参照する必要があるのです。このエッセイに綴った「世間のクイズに対する理解」とは、だいぶかけ離れたものですね。より深く知りたいという方、ぜひご一読ください。(2025/01/03追記)
情報オリンピックについては、どことなくライバル意識がある。 高校の同期である村井翔悟が3年連続で金メダルを獲得したことは学内でも話題だった。『高校生クイズ』 制覇を志していた私は 「俺より凄い山を登っているヤツがいる」という感覚を覚えたものだ。時を経てもうしばらく会っていないが、いまだに私の胸の中には、ヒマラヤの霊峰を登るが如き偉業への畏怖と、それでも同じ山人としての共鳴が残っている。
私はかれこれ15年ほどクイズをプレーしてきた。それが仕事となった今もなお、中学生の頃と変わらぬ愛でクイズとつながっている。変わったことと言えば、クイズに対して否定的な目線が少なからず存在することを知ったくら いか。
クイズは、学問を単なる遊びの道具に変えてしまいうるゲームだ。単語を知っているかどうかをただ問い、あまつさえ「早く押したほうが勝ち」という勝手なルールで分断を広げる。たった100字に収まるほどの表層的な説明のみでもって「物事を知っている/知らない」を断定するのだ。知を積み上げる営為に唾吐く行為、かもしれない。
「クイズのための学び」が歪みを生み出しうることは事実だ。正解するために蓄えようとした知識は、クイズの競技化が進むにつれ、いびつな形で学習されだす。『東大王』で活躍する上で、世界遺産について学ぶべきことはまずその歴史や由緒ではなく、位置する場所と真上からの姿なのである。
点数獲得に特化した学びは本質、正統から逸れうる。このことを否定するのは難しい。
それでもなお、私はクイズを断罪すべきだとは一向に思わない。クイズという競技は、ほんの一時点での観察で価値が測れるような、手遊びの具ではないのだ。
例えば、クイズに熱中して得た知識は、いずれ呼び水となり好奇心を喚起する。 ゲームに勝つために名前だけ覚えた世界遺産に、行ってみたいと思うようになる。 それは少なくとも名前を知らないよりは、遥かに知へと近づ く行為だ。知識についての作法をある程度守ることができれば、順番など後からどうにでもなる。クイズの際はクイズを楽しみ、そこで植えた種を後々収穫すれば良いのだ。
翻って情報オリンピックである。ともすると 「順位争いを過度にフォーカスしている」とも捉えられうるスタンスを取ってなお、遥かに批判が少ない (少なくとも私が調べた限り見当たらなかった)ことは開催のために積み上げられた努力の為せる技であろう。もちろん、クイズより学びに近い位置にある競技なので比較自体お門違いかもしれないが、「学びの競技化」という点を抜き出せば近しい論点にさらされうるはずだ。
その上でやはり、この競技もまたクイズと同様、上位を目指し続けることが大きな知の実りへつながるものと私は確信している。単にプログラミング技術を問うのではなく、数理的思考力を重視すると宣言されているのだから尚の事だ。後の時点における知的な広がりは保証されている。ひたすらに勝利を目指し研鑽を積むことが、結果的に競技者の知的世界を広げてくれるはずである。
「なぜ山に登るのか?」
多くの登山家が山に挑む意味を考え、自分なりの答えを出し続けてきた。ただしそれは、山に登る前にではない。山に登りながらだ。意味など、挑みながら考えればいい。ただただ、今を楽しんで、競技に没頭して欲しい。たまたま題材が学問なだけである。意味や価値は、きっと挑み続ける中で見つかるはずだ。同じ山人として、私もまだまだ探索の途中である。
(2021年4月26日 伊沢拓司著)