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エッセイ:記号化とリアリティ

 Podcastの超相対性理論「# 175世界に触れる方法を探る」で、人の絵を描いてと言われてうまくかけない人がいる、という話が妙に印象に残りました。

曰く、人間は物事の多くを”男の人”だとか、”メガネ”だとか詳細を省いて記号化して、細部を観察していない、つまり情報量を落として見ているということです。

 記号化している、という指摘にハッとさせられました。

なにかを眺めているとき、物事が眼球の上を滑っていく感覚が脳裏によぎったからです。

 しっかり見れば情報量が多いはずなのに、それを捉えられないときがあります。

あるいは、いい講演内容で、自分ではしっかり見聞きしているはずなのに、いざ報告書に書き起こそうとするとありきたりな内容しか頭に残っていないこともあります。

それらは過度な記号化、あるいは誤った記号化をして世界を曖昧に認知しているからなのかもしれない。

これは、自分の目から見た世の中の認知が記号化によって歪められている可能性があるということを示唆しています。

つまり記号化とはある種のバイアスなのです。

 自分が人か何かをスケッチしようとするとき、物事をどのくらい記号化して、あるいは記号化せずに観察しているかがわかります。

顔の輪郭、メガネのフレームの湾曲、鼻の上に小さくあるニキビ、顎の隅にある剃り残しのヒゲ、フケが少しついた背広の肩など。

こういうタイプの服をきて、誰々に似た顔で、と考えてしまうとそれは記号化していると言えます。

そのもの、リアルをダイレクトに観察すれば、記号は本来なくてもいいはずだからです。

 観察結果から記号を外していくと必然的に情報量が、リアリティが増してきます。

外界は本来、情報量が高いものなのです。

しかし私達の脳は多くの場合、リアリティを欠いて物事を見ています。

そのことをメタ認知しつつ、きちんと世界を見ることを、きちんとやっていきたいと思います。

以上


参考:


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t_hasegawa
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