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一当事者として見た「依存症と演劇」の雑感:こころネットKANSAI×DIVEプロデュース公演『あなたのとなりに』

虐待サバイバーとして暗黒の10代とそのしわ寄せのような20代、30代を送った。自分が選んだわけでもない境遇のために、痛めつけられ、病み、教育や福祉も十分に受けられず、トラウマに苦しみ、自己肯定感どころか、自分自身がなにものなのかもわからず、世界に見捨てられたように生きてきた人間にとって、人生というのはキレイゴトではすまされないと思っている。

 そんな中でずっと自分の支えになっていたのは、演劇への憧れである。演劇の中には自分と同じような痛みや悲しみを抱えた人たちがたくさん存在する。世界に見捨てられたかのように思えた時期でさえ、私は貪るように戯曲を読み、誰かと自分の痛みを共有したいと思っていたのを覚えている。

 いくつもの奇跡のおかげで、私は今、サバイバーとして社会の片隅で演劇と共に生きている。そんな中で、「依存症と演劇」について触れることが最近いくつかあったので、「当事者」として、触れておこうと思う。

 私は「依存症者」ではなく、「依存症者の被害を受けた当事者」である。たとえば、アルコールで酩酊した人間に殴られたり、傷つけられたり、嘲笑されたり、無視されたりしながら、自分は育った。周囲とのトラブルも日常だった。「お酒さえなければ」「お酒のトラブルさえなければ」と思っても、私の望みはいつも無視され、嘲られ、裏切られ、自分の感情や感覚がなくなるまで放置された。

 そんな「依存症者による被害者」というのは「依存症者」と同時に存在するのである。

 依存症の定義というのはいろいろあるが、医学的なものとは限らない。厚生労働省は本人や家族の苦痛や困りごとが生じているかに注目している。私の知る一つの定義は「それによってなにか大切なものを失ったとき」といわれる。仕事を失う、家族を失う、信頼を失う、存在価値を失う、それでも離れられないものがあることを指すのだ。それが「依存症」というのであれば、そこには「依存症者本人」だけでなく、「それによって傷つけられた人」もいるはずである。

 逆にいえば、「依存症者のみ」「依存症者の理解者のみ」が存在する世界というのは、「被害当事者」にしてみれば「自分はいないものとして扱われたのだなあ」という、乾いた感情が残ってしまう。それは切なく、哀しく、そして空しい。

 では、そうした演劇は価値がないのだろうか。いや、そうでないとは思う。

 折しも、今年は大河ドラマで吉原が舞台にされ、そこでの女性の描かれ方が議論になっている。吉原の歴史を知っていれば、それが美しいだけの世界ではないのは確かだが、一方で、「触れてはいけない」「描いてはいけない」とするのも間違いではないかと私は思う。吉原に生きた人々の世界に「触れよう」とするアプローチは、たとえそれが「good try」に終わったとしても、否定するものではない。歴史上ないものにされるよりも、不完全であっても歴史に迫ろうとする態度の方が美しいと私は思う。

 依存症の世界も同様である。依存症者を取り囲む世界のエグさを知っている人間にしてみると、「わかるよ」「大変ね」「大丈夫」「がんばろうね」という上辺の「理解」は、寂しさしか感じないが、だからといって、「触れよう」「理解しよう」という態度そのものを否定していたら、いつまでも当事者以外にとっては他人事のままになってしまうのだろう。私はかつて、何度か逃げ出して人に助けを求め、そのたびに、「そんなことあるはずがない」「(加害者と)きちんと話し合え」「(被害者の)あなたの落ち度があるのではないか」といわれて、家に連れ戻された。「そんなことがある」ことを知ってくれる人が増えたら、助かる人がいるかも知れない、そう思えば、このアプローチを黙って見守るべきなのだろうと思う。

 そして、それが当事者でないからわからないのだ、とは、私は思わない。

 10代の私が心の支えにしていた戯曲の一つはシェイクスピアの「オセロー」である。無実の妻の貞淑を疑い、妻に暴行し、侮辱し、無視し、最後は床に就いた妻を殺してしまう夫。最期の瞬間まで夫を信じ続けた妻のデズデモーナに、当時の私は自分自身を見たのである。この戯曲は世界中で上演され、数多くの名演もある。当事者でないはずの演劇人がそこまで迫ることができるのならば、社会の片隅で、依存症者に殴られ、裏切られ、嘲られ、犯され、傷ついている人の存在にだって、気づくことができるのだろうと思う。

 14歳くらいだったと思う。私もベッドの上で首を絞められたことがある。それは加害者によれば、嫌なものを「嫌だといった」私が悪かったのだそうだ。オセローは最後に妻の亡骸を抱きしめ、無実の妻を責めた自分の過ちを悔いる。私はこのシーンが好きだった。しかし、私にはその時は来なかった。私はその後逃げ出し、二度と戻らなかった。加害者が過ちを悔いて私を抱きしめてくれることはなかった。なぜなら加害者が自分がしたことを記憶していなかったからだ。被害者の私には「首を絞められるまで」と「我に返ってから」の記憶が残っていて、それは生涯私の痛みとして残るのだろうと思う。

 依存症とはそういうものなのだ。

 加害者にもつらいことがあったのだ、被害者がいつまでもめそめそしていても仕方がない。被害者も加害者の理解をせよ、話し合いをせよ、和解せよ、暴力をふるったのも、侮辱をしたのも、ネグレクトをしたのも仕方なかったんだよ。加害者も大変なんだよ、そんなことをいってきた親族もいた。最初は一生懸命相手をしていた私は、だんだん自分の心をないがしろにされ続けることに耐えられなくなり、ついに最後はすべての「自分の加害者の理解者」との縁を切った。今、私の家族は夫と子供だけだ。「中途半端な加害者理解をする人」とは被害者にとってはそんなものであり、それは加害者の味方をして、被害者をないがしろにする「イネイブラーの一種」だと私は思っている。

 そんな時、私は心を閉じて、「自分はいなかったことにする」しかない。そこに「依存症者とその理解者」しか存在してはいけないのだから。その時、私の心に乾いたものしか残さないのは、サバイバーたる自分の生存戦略であり、そうでなければ、今、社会の片隅に生きていることさえもできなかったのだ。

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