時間の概念ってなんだろう
昨日から時間について調べてたら、仕事も手につかなくなって
ほとんど今日は何もできなかった。
寝る前にこんなYoutubeを見つけてしまった。
時間ってなんなだろう。
時間があり何かをするのではなくて、人が時間という概念を生み出した上で何かをする。というのが今の感覚なんだがどうだろう。
動画内に登場する「ピダハン族」はブラジルの熱帯雨林に住んでる方々で
どうも彼らには【時間】の概念がないらしい。
過去も未来もなくて「今しか生きていない民族」
動画では彼らの世界観がなぜ構築されたのか、ユーモラスに丁寧に考察されててすごいと思った。
もう一つ紹介されている「ムブティ・ピグミー族」のエピソードも特徴的
と聞いてきたエピソード。
ピグミー族の子どもは遠近感が発達していなかった。
その理由として熱帯雨林気候がもたらす生活環境が影響しているから。
いわく、ピダハンやピグミーが暮らす場所は一年中気候や温度・雨量が変わらないから
季節の変化がない = 時間が進んでいる感覚が養われない
加えて、熱帯雨林てただ木が多いんじゃなくて「とんでもなく多い」から光も全然届かなくて暗い。
どんだけ暗いかっていうと、昼間でも暗い富士の樹海の2倍は暗い。
だから、「区切り」がつけずらく「時間」や「月日」を取り入れなかったんだと。
あと遠近感が希薄だから、「対象と距離」から推し量られるはずの時間的感覚が養われなかったことも影響しているとのこと。
(遠くにいる人がこちらに歩いてくるとして、その大きさや歩幅から見てあと1分くらいでこっちに辿り着くなみたいな感覚)
強引にまとめると
一般的には「遠い昔」とか「近い将来」って空間に対して使う言葉を時間に対して使うけども
これは時間と空間の関係を我々がめちゃめちゃ意識している証拠で
でも彼らには生活環境が影響しててその概念自体がないんだという話。
専門的に学んだこともないので、主張全てが妥当なのかどうかの判断はつかないけども概ね説得力のある内容のように思えた。
ここで一番伝えたいのは「彼らがとっても幸福」だという主張。
タイムイズマネーに代表されるような時間とお金の関係は、ここには存在しない。
ピダハン族の面白いエピソード
数を数える単語がなく量を、「ちょっと」「まあまあ多い」「いっぱい」みたいな感じで認識している
・・・大雑把すぎる
テーブルの上に石ころを6つ並べて、ピダハン族に「同じように石を並べてください」と頼むと、彼らは5個並べたり7つ並べだしちゃう。
・・・いい加減すぎる
エ:「イエス様はとても素晴らしいお方なんだ」
ピ:「ほう、なるほど。ところでお前はイエス様に会ったことがあるのか」
エ:「いや、ない。ずっとずっと昔の人なんだ」
ピ「そうか、お前は会ったことがないのか。じゃあどうでもいいな」
※エヴェレット氏とピダハン
キリスト教を布教にきたエヴェレッ氏、無事無神論者になる。
平均寿命は45年くらいみたいだけど直接体験を最重要視する彼らにとっては
「寿命」も対して気にすることではないんだろうな。
そしたら時間概念が及ぼす負の側面ってなんだろう。
彼らが現代の資本主義世界に侵食されないことを切に願う。
補足:
人間の時間の捉え方は複雑で、①循環的な時間概念と②直線的な時間概念が同時に存在している。
この二つの時間概念は、異なる観点から人間の経験や認識に影響を与えている。
①循環的時間概念は
自然の周期や季節の変化、日々の繰り返しに基づく
例:一日の中で昼と夜が交互にやってきたり、四季が巡りくることを感じ取る。
一年が経過すると再び同じ季節や出来事が訪れることから、循環という概念が生まれる。
②直線的時間概念は
時間が一方向に進行していくという観点から人生を捉える。
過去から未来へと進む直線的な時間の流れによって、人間は成長や変化を経験し、目標や計画を立てることができる。
この直線的な時間の考え方は、個人の人生の進展や歴史の進歩を理解する上で重要な概念ですね。
つまるところ人間は一日や一年の循環的な時間の中で、直線的な時間の概念を受け入れながら生活しているというのが現代では一般的だ。
個人的には「時間」という概念感覚は不可逆性を持っていて、一度受け入れてしまったら、もう外すことができない概念なんじゃないかと思う。
どちらの世界が良い悪いはないが、その感覚を体験することはできないという点は実に惜しく思う。
この感覚を手に入れたら最強の精神安定剤になるはずだが、現代社会とは相性が悪すぎるようだ。
しかしピダハンや古来民族の考え方は昔から変わってないという点において
なんとなく人間の倫理観の指標になるような気がしてならない。
彼らを分析することで人間の本来性など何かヒントになることがたくさんあるんだろうな。