写真は光しか撮れない
どうも、プロレスとか役者さんポートレートを撮っているたかはしです。
ここ1ヶ月半ほど、立て続けにポートレート撮影をしていたので、しばらくは役者ポートレートの連載をしておりました。
しかしとうとう撮影に間が空き、通常投稿と相成りました。。。
さて今回ですが、SNS上で見かけた文言に対してのカウンターカルチャー的随筆です。
理系人間、情報工学人間な私の思う、「写真に写るものとは」。
そんな、お話し。
闇は写るか
SNS上で、こんな投稿をお見受けしました。
「闇のある写真撮りました」「闇っぽい写真撮りたい方募集」
この文言自体は、別に悪い話ではありません。
しかし私自身は違和感を覚えました。
写真は、カメラ・オブスキュラの時代から、フィルム、デジタルと形を変えてきています。
いずれの形にしても、レンズを通過して記録されるのは”光”、もとい電磁波であり光子です。
言葉の綾ですが、写真に闇は写らないと思うのです。
物理的に。
心理的な闇は写るか
言葉の綾を回避すべく。
物理的な闇ではなく、心理的な闇、すなわち人間の内面というのは写るでしょうか。
えらく抽象的な話です。
目に光がない状況でしょうか。
錯乱している状況でしょうか。
それとも…命に関わるような話でしょうか。
私の思う「闇の写真」。
例えば歌舞伎町でホストを刃物で刺した女性(閲覧注意)。
1994年のピューリッツァー賞を受賞したハゲワシと少女。
挙げた2つの事例は、カメラマンが第三者として撮影した写真です。
闇を抱えた本人、それに対峙した人間、そのどちらでもありません。
別の事例では、自傷をした写真。
直接的にその件の名前を出すことは避けますが、凄惨でした。
その後含めて。
いずれにしても、もはやコントロール不能というか、正気ではない状態に置かれ、撮影されています。
その場に、2人称視点でのカメラマンが居たとして、カメラに写すのは至難の業、というか倫理的にやばいと思います。
撮れるならサイコパスの気があると言ってもいいでしょう。
ことポートレート等の作為性がある作品において、心理的な闇は撮影することは可能でしょうか。
私の見解ですが、表現可能だけど触れてはいけない、です。
心理的な闇は撮れるか
仮に本物の闇を目の前にしたとして撮るのは倫理的にNGだろうとしました。
その上で作為的に闇を表現してみましょう。
撮るなら夜、もしくは廃墟だったり落書きやゴミだらけの場所がいいでしょう。
もしくは業務用の焼酎4Lのボトルや半額弁当の容器が散乱した汚部屋でもいいかもしれません。
髪をかき乱してみたり、黒めのリップを塗ってみたり。
許される状況なら刃物とか注射器とか持ってみましょうか。
ここまで考えてみて、その人の内面的な闇って表現できているのでしょうか。
美術的な”内面性の発露”という意味での表現だったり、辞書的な闇は表現可能でしょう。
撮れます。
ではカメラマンが、被写体の内側に潜む闇を引き出して、写真に収めることはできるでしょうか。
私の経験則から言えば、できません。
心の闇に触れるということ
私自身、光の降り注ぐ人生を歩んできた自信はありません。
いじめ、クラスメイトとの不仲・裏切り、金銭トラブル、男女トラブルなど、幾重にも傷つき生き延びてしまいました。
今なら笑い話にできますが。
クラスメイトにハブられ、無視や嫌がらせ、利用するだけ利用され。
交際しているパートナーに包丁向けられたり、刃物で自傷されたり、高層階から飛び降りようとされたり。
そんなトラウマを発露して、ネガティブなまま写真に起こせって言われたら、向けどころのない怒りとも悲しさともいえぬ、ドロドロした感情に支配されて立ちすくむでしょう。
逆に、上記の状況において、カメラを構えられるかと聞かれたら、無理ですと答えます。
それどころじゃありません。
あのときのような、パン切り包丁の刃を腕に充てがった相手を目の前にしてパニックにならないとしたら、「やったらいいよ」という諦めの言葉を出しているだけです。
結論。
闇を撮ろうなんて軽々しく言えません。
写真は光しか撮れない
最初の論を回収しましょう。
私の持つカメラは、光しか撮れません。
ポートレートにかんして。
仮に心に闇を抱えていたとしても、カメラの前に立ってくださるのは、そういった面を隠すか克服している状態だと思っています。
私のできることは、その人の物理的に反射して見えている光を記録すること。
そして、その人自信が放っている光を表現することです。
じゃあ暗めの写真を撮っているのはなんでだよ、と。
たしかに「治安悪い」として撮影していますが、「2本の闇」「社会の闇」「心の闇」といった、闇をテーマにした写真は撮っていません。
テーマとしてはもちろん、キャプションでも闇だと言い切ったことはないです。
暗い部分は、ある意味「人間臭さ」だと思っています。
キレイだけでは生きていけない、正直というか生臭さというか。
落ち込むことも、誰かを憎むことも、誰かを傷つけることもある。
そんな面。
だからこそというか、本心からというか。
モデルさんたちには「生まれてくれたありがとう」「息吸って立ってるだけで素敵」とクサい言葉をかけています。
撮影を、自己肯定感のアガる”体験”としてほしい、というのが裏テーマなので。
ポートレートで書いてきましたが、もう一方のプロレスでも同じことを考えています。
ヒーローでも、悪役でも、ベテランでも新人でも、夢を実現させて、誇りを持ってリングに上っているのがプロレスラーです。
ギミックとしての光と闇や、対立構造はあれど、そこに写るのは夢であり光。
観客は、その光を見るために観戦し、写真に勇姿を収めます。
ギミックやプロ意識を超えた中にある、その人らしさ、プロレスが好きだという感情が、見るものに感動を与えていると思って見てます。
話が長くなりましたが。
人間を撮る以上、光を撮る人でありたいです。
終わりに:私は面倒くさい人
ここ10年くらい、自分が面倒くさい人間だなという自覚が凄まじい。
変な方向へ考えを突っ走らせるし、どうでもいいことにこだわりを持ち、悩まなくて良いことを悩む。
どういう育ち方をしたんでしょうね。
写真においては面倒くさい面を出したくないのです。
包み隠さなければ、日々自○念慮に苛まれる、完璧主義の、人格障害な人間です。
でも、そんなの関係ねぇ(海パン漢感)。
めんどくさい思考ですが、共感してくれる人がいたら嬉しい…
おしり。