女性が撮る写真、男性が撮る写真、自分が撮る写真
ひとつ間違うと危うい論になるテーマですが、あえてこのタイトルでしたためます。
「写真を撮った人物の性差は、写真そのものの評価に影響を及ぼすか」
そんなお話し。
結論:影響を及ぼす
とっかかり結論から。
「誰が撮ったか」「どんな人物が撮ったか」という情報は作品に影響を及ぼします。
時には作品のクオリティ以上に重要視されます。
性差・性別についても同様です。
私の主観であるという予防線を張りつつ、話を進めます。
本稿では、以下の構成で進めます。
ヌードはアートか
女性が撮るヌード、男性が撮るヌード
(話を拡張して)女性が撮る写真、男性が撮る写真
ヌードはアートか
古今東西、美術・芸術においてヌードは切っても切れないテーマです。
古くはダビデ像やミロのヴィーナス、宗教画、現代アート。
写真も例外ではありません。
西洋絵画史にフォーカスを当てれば、ヌード=宗教上のモティーフ、が大前提でした。
実在の人物には服を着せないといけなかったわけです。
逆に言うと、ヌードを描くための大義名分であったとも捉えられます。
そんななかで、例えばミレーの『草上の昼食』のように、批判にさらされながらも枠組みを拡張しようと活動した人物がいました。
一般人のヌードもアート、という時代の幕開けです。
執筆時点(2023年3月)開催中の『エゴンシーレ展』なんかでも、親族やパートナーのヌード作品が展示されています。
もう目を覆いたくなるくらいなものも…私は直視できずにスルーしました。
肉体美という観点からすれば、古来からモティーフとして見られていたわけです。
それを軸に表現するのであれば、ヌードもアートなのでしょう。
グラビア・セクシー系はアートか
ここで反論のようなものを考えます。
グラビアアイドルの雑誌巻頭カラー、セクシー系女優の写真集は、同様にアートであるか、という疑問です。
結論、「アート」の定義によって変わるというのが答えです。
広辞苑の説明、そして参考としてWebメディアの論を並べてみます。
「美」という哲学上の命題に対して、学問的・感覚的に追及をしたもの、となります。
またコンセプチュアルアートの登場と共に、たとえばウォーホルの大量生産品のように、「美」以外に対して主張や論を展開したものも「アート」と定義できる、ということです。
ここで「グラビア・セクシー系はアートか」という問いに戻ります。
仮に、女性の肉体美を追及し、美の概念に対して新たな主張を展開することが目的であるのなら、それは「アート」と言えるでしょう。
では、それが目的でないとしたら。
「アート」ではない何か。
女性が撮るヌード、男性が撮るヌード
この記事を書くに至った3冊の写真集をご紹介(以下、3冊と呼称)。
3冊とも女性フォトグラファーさんの作品です。
雑に言えば「エロくないヌード」、と言えましょうか。
特にインベさんの『理想の猫じゃない』は、女性たちの言葉まで読むと吐き気すら覚えるような作品です(注:写真集としてはとても良いものです)。
私がここ1カ月ほど、もっと言うと2年くらい、ずーーーっと考えてもわからないこと。
「男性が撮るからエロいのか、女性が撮るからエロくないのか」という問いです。
色々考えたり本を読んだりしましたが、とりあえず3つの仮説を立てるまでで、結論は出せていません。
その仮説をご紹介。
①見せる対象の違い
上で紹介した3冊ですが、おそらく購読者のターゲット設定は女性です。
女性が見て読み物として成立させられる内容、かといって男性が見ても問題は無いもの。
一方で、グラビアやセクシー系はターゲットが男性。
女性でも見る方はいますが、内訳としては少数派でしょう。
ここのギャップに原因の一端があると見ています。
②目的の違い
これは撮る目的、見る目的両方です。
性的な興味から見るのか、何かしら別のコンセプトを表現するための目的として見るのか、という違い。
3冊に覚えたものは、「人生に暗い部分を持った人間の姿」や「コンプレックスでも愛せるようになった」という、テーマへのアプローチ手段としてのヌードに対する、半ば安心感ともとれるもの。
撮る側が明確にそういった目的をもって制作していれば、自ずと伝わるのかもしれません。
また、「被写体が誰なのか」という情報の必要性もキーだとにらんでいます。
グラビア・セクシー系はその人物を売り出すためのコンテンツですから、名前とセットに提示される一方、撮影者の存在は不要です。
一方、3冊では写真と名前が別ページになっており、その人物が誰なのか気にしなくても大丈夫であって、被写体:撮影者の比重が4:6とかで撮影者寄り。
「写っているのが誰」「撮っているのが誰」という情報の比率も、違いとして考えられます。
③関係性の違い
ここが私の悩みどころ。
「被写体が撮影者にとってどのような対象か」という情報。
酷く表現するなら、撮影者から見て「ワンチャンある」人物なのか否か。
3冊が違うなと強く感じたのが関係性でした。
おっぱいにめっちゃ寄って撮ってたりするのですが、どこか危うさを覚えない。
感覚的なものなので再現性も根拠も薄いですが、重要な要素であることは間違いなさそうです。
じゃあ何に悩んでいるかといえば、「同性愛者や両性愛者が撮っていたら、女性被写体-女性撮影者であっても『ワンチャンある』じゃないか」という反論。
また肉体関係にありつつ信頼関係が築かれた間柄に、どのような感覚を覚えるのか、という疑問。
男性被写体-女性撮影者でも同様か、という疑問。
なにもわかりません。
女性が撮る写真、男性が撮る写真:作品と人物像
話を写真一般まで拡張します。
冒頭の「写真を撮った人物の性差は、写真そのものの評価に影響を及ぼすか」という問いです。
人物写真に限定すれば、上記①~③が写真を見るときに必要な情報ならば、撮影者の人物像(性別を含む)という情報も必然的に、写真を評価するためのファクターだとなります。
もっと言うと「作品と人物像はリンクしている」という観念の上で評価がなされる、と。
これは完全な主観ですが、「女性による○○」というのはコンテンツ性を強く持つと思っています。
「男性による○○」ってあまり言わない(社会的・歴史的背景からだと思いますが言及はしません)。
直近でも「女子カメ展4」という展示を観てまいりました。
これは確かに「女性による女性の展示」と思わされる内容。
プロの方でいえば蜷川実花さん、ヨシダナギさん、インベカヲリ★さんなど、実力もさることながら「女性である」という点においても重要な人物が多くいます(注:彼女らが女性性を武器として捉えていないというケースについても考慮しています)。
写真史においては男性の活躍が中心の時代が長かった点が理由だと思いますし、社会的にも女性の活躍が望まれる時代ですし。
話を写真そのものに戻して。
「写真の評価に人物像の情報が必要」と「社会的に女性の活躍が望まれる」という論がそれぞれ真なら、「写真には、撮影者の性別によって明確に線引きがなされても不思議でない」と結論付けられます。
女性が下駄を履かせられているという話しではなく、「こういう人だからこういう作品だ⇔こういう作品を作るのはこういう人だ」という観念に性別というファクターが切り離せないのです。
これまで紹介してきた作品・ジャンルも、「どんな人が何を考えて撮ったのか」が観る上で欠かせない要素だったと、私自身が思いますし広く事実として捉えられると思います。
グラビア・セクシー系がアートかという論も、同様の考えで説明づけられます。
一般的な話はここで力尽きたので、私的な話をしていきます。
自分が撮る写真
実をいうと、男性が撮るヌードが苦手でして。
撮ったことは無いし、撮りたいとも思わず、見るもの得意ではない。
目の前の性的対象に対して向けている本能・欲望といったネガティブなイメージを、否が応にも受け取ってしまうのです。
「このモデルさんはどういう感情で撮られているのだろう」「撮影外では何が行われて・話されているのだろう」と考えると気持ち悪くなってしまいます。
しかし自分の人物像を全く消し去ることは出来ないし、関係性という面においてモデルさんに全く意識させない、なんてことも無理。
ともしたとき、自分が「男性が撮るヌード」に覚える嫌悪感は、私の写真から同様にほかの誰かが感じていてもおかしくないという、確かめようのない現実がそこにあります。
カフカ的不条理、とでも言いましょう。
まぁ、気軽に見たらいいと思います(雑な結論)。
まとめ
「美」ないし隣接の概念の学術的・感覚的追求の提示が「アート」
男女のそれぞれ撮るヌードの違いとして①見せる対象の違い②目的の違い③関係性の違い がある
写真の評価のファクターとして「人物像」が必要で、したがって「性別」も切り離せない
自分の写真だって気持ち悪く思われうる
好きに見たらええ
でした。
おわり。