自分にとっての「いい写真」とは「語れる写真」|1年間写真について書いたまとめ
どうも、プロレスとか役者さんポートレートを撮っているたかはしです。
次回投稿の記事で53週連続投稿となります。
Google先生によると1年は52.1429週らしいので、これにて1年間の毎週投稿達成です。
ダラダラと続けている文章にお付き合い頂きありがとうございます。
1年のプレとなる本稿では、写真について触れようと思います。
これまでトピックスとして挙げてこなかった「いい写真」についてです。
なぜトピックスにしなかったかと言えば、「いい写真」が分からなかったから。
分からないからこそ、自分の心理や認知、思考を言語化していって、何が自分にとって大切なのかを見つける必要がありました。
その作業こそ定期的な投稿です。
1年を通じて写真について考えた結論としての
「良い写真」とは「語れる写真」
について、2つの側面から書いてみます。
裏側にあるストーリーを語れる写真
これまで15年ほどプロレスを見てきて、また4年以上プロレスを撮ってきて、プロレス自体もプロレス写真もいいものだなと感じています。
共通して言えるのは、表面的な視点では見えてこない「裏側のストーリー」にあるという考察です。
これまで20本ほどプロレス記事を書いてきて、複数回使用している写真があります。
どれも私の中で「いい写真」として刻まれている写真たちです。
特に「スポーツ写真展」の記事では、どのようなストーリーが裏側に含まれているのか1枚1枚深堀りをしました。
裏側のストーリーは、写真が出来上がるまでの過程と言い換えられます。
被写体に対する思い入れや知識、撮影時・撮影後に湧きあがった感情など、様々なエネルギーが1枚の写真に注ぎ込まれて完成します。
それが写真だけで伝わればいいですが、表面的な情報だけでは伝えられないことが沢山あるので語りますし、記憶にも刻まれます。
プロレスでの熱い思いを例にしましたが、別に失敗談や日常の一コマだっていいわけです。
そこに語るだけのエピソードや感情が存在するなら、いい写真足り得えます。
例えばお子さんの成長記録、初めての〇〇とか、入学式でこんなことあったとか、1枚の写真だけで話題に花が咲く様子が浮かびます。
そんな写真が良い写真じゃないかな、と。
また、写真を撮った本人が写真から影響を受けた衝撃についても記事にしました。
記事では、「自分の認識をあらためて突き付けられた」という感情の揺れ動きと、そこから考えた論について語っています。
ベースはたった1枚の写真ですが、「考え方を改めさせられた」というストーリーが隠されている1枚であって、語るに十分な要素が詰まっているのです。
物語を紡げる写真
役者ポートレートを撮ってきて思うのが、世間的な評価がどうであれ、いい写真が撮れているということ。
ここでは根底にある「物語を紡げる」ことについての考察を述べます。
先程の「裏側のストーリー」は出来事や感情などの「事実」に基づいて語る内容でしたが、それとは別方向で語った写真があります。
記事の内容は事実ではなく物語として写真を語っています。
物語と写真の親和性を認識させられましたし、いい写真の要素は技術だけじゃないという教訓も得られました。
また私がポートレートで大切にしていることに、「先にロケーションがあって、そこに人物を配置する」という思考の順番があります。
ロケーションは背景であると同時に、写真の中の世界そのもの、つまり舞台装置です。
まず舞台装置があって、そこに登場人物を加えると、自ずと物語が生まれるという自説を持っています。
どのような世界でモデルさんを表現したいのか、を考えながらロケーションの案を練って、必要ならロケハンをして、撮影に臨みます。
事前に大筋のストーリーライン設定はできていて、あとはモデルさんと共同で物語を紡いでいく作業が撮影かな、と。
役者さんを登場人物とみなして、ストーリーライン上での振る舞いを一枚絵に落し込む。
それが役者ポートレートと捉えています。
一方で、写真で表現できることには限界があります。
いくら事前に準備をしたところで、不連続な場面の切り出ししかできず、伝えきることは困難です。
その分、後からいくらでも考証が可能です。
「華のいろどり」やがいい写真と思えるのは、考証の余地、つまり「物語を紡げる」ことが要素として含まれています。
いくら余地があると言っても、訴えかけるものが何も無いと意味がありません。
この程度や表現手法については、「モデルは物語の登場人物」というスタンスを抽象化した先に本質が見えてくるものだと考えて撮り続けています。
共通しているのは「曖昧さゆえの情報・解釈」
2つの語れる写真について述べてきました。
ここでは、どちらにも共通していることについて考えます。
写真では情報がそぎ落とされて表現されます。
例えば音や時間、そして被写体そのものの情報。
ここから言えるのは、写実的でありながらも、曖昧さを持ち合わせている表現手法ということです。
その曖昧さ故に、情報を付け加えることが可能ですし、外郭の解釈も如何様にもできます。
撮影手法がどうとか、モデルとの関係性がどうとか、気象条件がどうとか。
その情報や解釈のうち、上述の2つが共通しているのは「語らないと伝わらない」です。
批判的に捉えられかねないので引用はしませんが、「写真について多く語ることは避けるべき」という主張も耳にします。
しかし「このプロレスの試合は団体〇周年記念大会のメインイベントで、他団体へ流出したタイトルを奪取すべく、若手選手がプレッシャーに抗いながらも期待を背負って臨んだ重要な一戦」みたいな情報は、語らないと分かりません。
語るべきでないことがある一方で、語った方がいい情報や解釈もまたあるのです。
そんな「語った方がいいような情報や解釈」を多く含んでいるのが「いい写真」。
もしくは「語らずとも『語った方がいいエピソード』がありそう」な写真(例えば家族写真)じゃないかなと。
1年書いてみて、そう思い至りました。
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ここで述べたのは、写真を文章で考えてきたからこその考え方かもしれません。
そもそも「いい写真とは」は明確に答えが決まっている問いでもないですし、人の数だけ答えがある問いでもあります。
だもんで、そんな曖昧さがあるなら個人的に解釈しちゃっていいじゃないの、というお話でした。
さいごに、2つの大切な記事を載せておわりにします。
それでは。