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「自分らしい写真」は分からん。でも「自分の写真」は分かる。
自分らしさ、ってわかりますか?
自分らしい作品、ってわかりますか?
私にはわかりませんし、らしくありたくない、とすら思っています。
どうも、プロレスとか役者さんポートレートを撮っているたかはしです。
今回は、就活してた時はイキって自分を語ってたのに、時を経て自分らしさが分からなくなった、そんな人間の撮る写真を考えていきます。
「これ自分の写真だ」「これは他の人の写真だ」が分かるフォトグラファーさんって多いと思います。
撮った写真を覚えていれば当然ですが、何十万枚撮っていても同じなのです。
「自分らしい写真」は分からないし否定したいのに、なんで「自分の写真」が分かるのか。
自分を肯定していくための材料が眠っている気がするので、掘ってみようと思います。
結論:言語化力が足りてない
結論から言ってしまえば、
・「自分らしさ」とまで称せるような高尚な自己理解に至っておらず
・かといってコンセプトやこだわりが無いワケでもなく
・しかし「自分の写真」を説明するための抽象化や言語化ができていない
が原因と推測しています。
1つ1つ見ていくことにします。
捨てられた「自分らしさ」
遡ること8年。
「自分はアカデミックじゃなくてビジネスだな」と判断し、大学院への推薦を蹴って就活に勤しんでいました。
色んな就活セミナーで言われる「自己分析」、御多分に漏れずやっていたわけです。
若さ故、自己啓発本の触れ込みを鵜吞みにした意識高い戦士としてエントリシートを認め、面接でハッタリをカマしておりました。
「ユーザが認識していない潜在的なニーズを刺激できるような、革新的なソリューションを開発したいと考えています」
「俯瞰して物事を考え、チーム全体がより良い成果をコミットできるような立ち回りや意見出しができまっす」
「トップに立つのではなく、2番手3番手として戦略立案や技術的な組織改革を実行する力があります」
大きく実態と乖離しているものでは無いのですが、圧倒的で無根拠な全能感に背中を押されて思考が暴走していますね。
じゃあ今はどうなんだと言えば、全能感と対極の「自尊心皆無な生きる理由探しマン」な期間を過ごしております。
前回記事を書くことでスッキリさせようとしましたが、無事悪化の一途を辿り、仕舞には動悸が頻発する事態に。
かつて築き上げた自分らしさは、いつの間にか砂上の楼閣と化していたのです。
その原因は写真であり、文章であり、SNSであり。
「自分が提供できる価値」に固執した結果、「自分らしさ」という考えを否定し、より承認や利益、効用を得られるような作品を出さなければという焦燥感が私を支配しました。
自分が自分であることの否定、現状の否定、成果の否定、それらに囚われた人間には、自己理解など遠い概念なのでありました。
写真に対するこだわり
2021年初めから毎週投稿を続け、先日60週を達成しまして。
その間、プロレスやポートレートなど、写真に関して考えて文章に起こしてきました。
先ほど「自分の否定」と述べたものの、自分の中に何かしら芯がないと継続できないことも確かです。
自分らしい写真は否定しつつ、自分の写真イデオロギーを捻じ曲げるようなコンセプトは否定したいという、ダブルスタンダードでダブルバインドです。
そんなイデオロギーの一端は、これまで書いてきた記事に表れています。
プロレス写真でも肌の色にこだわりたいとか、女子プロレスの写真はエロやフェティシズムを追い求めるとは限らないとか。
ルッキズムに傾倒した写真は撮りたくないとか、風景のようなポートレートを撮りたいとか。
いま見ても考え方自体は否定するものではありません。
つまり「写真に対するこだわり」があるのに「自分らしさを否定している」だけであって、他者からしたら「らしさ」があるのかもしれない。
という結論を自分に鵜呑みさせました。
「自分の写真」は分かるけど説明できない、を脱する
抽象化って難しいです。
物事や概念の法則や本質を見出し、より汎化された概念に置き換え、複雑な論理構造を展開して文章に起こすわけですから。
「自分らしい写真は分からないけど、自分の写真は分かる」状態というのは、こだわりの抽象化や言語化が出来ていない状態なのだと考えています。
写真に対するこだわりはあるものの、こだわりを体系的に理解して抽象化し、自信をもって人に伝えられるだけの言語になっていない、と。
言い換えますと。
写真に言語化できていないこだわりが内包されていて、自ずと「自分ならこう撮る」とマッチする=自分の写真、という認識に至っていると推察します。
「自分ならこう撮る」が自分の写真であるなら、「自分らしい写真」は「自分ならこう撮る」をまとめ上げて抽象化・言語化したものであって、二つは地続きの関係です。
ではなせ「自分らしさ」を否定したいのかと言えば、自己否定による自己保身です。
仮に自信をもって世に出したとして、その自信を折られてしまった場合のダメージを事前に抑えようとする働き、と考えられます。
今の私に必要なのは、ネガティブ思考に囚われて動悸でハァハァすることではなく、多少なりとも「自分らしさ」を肯定していく動きだと、ここ1日の間で考えを整理しました。
今の状態は完全な悪ではないものの、自分のメンタルを蝕む以上、放置するのは適切ではないでしょう。
うまいこと「自分らしい写真」の認識や抽象化、言語化を進められるよう。
人に意見を聞いたり、逆に人のらしさを言語化してみたり。
時間はかかっても必要な作業と捉えて。
「自分の写真」も分かるし、「自分らしい写真」も分かる。
いま考えるとキラキラし過ぎて直視できない像ですが、いつかなれたらいいなぁ。
参考資料
できた・できないに固執してしまうので、いろいろ考えさせられました
ダークサイドを脱するにあたって自分を納得させる論として読みました
生の肯定については別途記事を書けたらなぁと
それでは!
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