自分の顔が嫌いなのでカメラ始めましたというお話
趣味であるプロレス観戦での販売グッズの中に、「ツーショット」というサービスがある。選手とチェキもしくは手持ちのカメラでツーショットを撮ってもらう、ファンとしては有難いことこの上ないサービス。
しかし、私はこのサービスを利用することがほぼ無い。「今日は追加料金無しでツーショット撮り放題」と言われようが、ファン仲間に進められようが、頑なに撮ろうとしない。今の推しと撮ったのは、ご本人から撮ろうと勧められた時の一回きり。
なぜかと言えば、それが私がカメラを握ることになる切っ掛けだから。
撮られることへの恐怖と嫌悪
恐らく写真を撮られることに不安のない方は、写真に写った自分の顔を直視しても大きく嫌悪を抱かないと思う。自分の顔が気に食わないとしても、撮られること自体が嫌ではないのだろう。
しかし私個人としては、「自分の顔を鏡以外で見る気持ち悪さ」「自分の顔を後から確認すること=身の毛もよだつ」「自分の姿が記録として残ることへの嫌悪と恐怖」という感情に苛まれる。太ろうが痩せようが髪形を変えようが、変わらぬ感情が渦巻く。
さらに言えば自分の見た目だけでなく、声や喋り口調も気に食わず、「自分の身体的特徴が記録されること全般が恐怖」が、おそらく思春期以後染みついている。
学生で言えば修学旅行などでの集合写真やスナップ写真、社会に出てからも何かのタイミングで撮られる機会が何度かある。自分単体で見ると不要の産物なのだが、いかんせん記念品として持っておきたい気持ちがあるだけに困る。
プロレス関係のチェキをイベントで撮ってもらったり、イベントの集合写真を撮ってもらった後の「自分の顔見たくなさ」vs「思い出に浸るタイム」は、発生するたびに死闘となるのである。
カメラに興味を持つきっかけ
そんな折、カメラに興味を持ったのは大学時代。サークルの広報活動の一環として、カメラで活動風景を収める仕事があった。この時も撮られる側に回るのはとても嫌だったが、撮る側に回ると不思議と楽しめていた。
コンデジなだけにクオリティはそれなりでも、いい写真が撮れた時の気分は一入。そこには情熱をかけて活動を行う大学生の熱意を、写真という形で捉えられる楽しさだったのだと思う。
大学4年以降はサークルからも抜けたため、カメラとは縁がないまま暮らしていた。その代わり、色んな所へ出かけるたびに携帯電話のカメラで撮影をしていた。料理、風景、花etc...
ここで問題が発生。当時使っていたスマホはバッテリーの持ちが悪く、出先でカメラを撮っていようものなら帰り道は電源OFF。何なら泊まるホテルまでの道のりを調べる前に力尽きてしまう、なんてことも。
そこで考えた。「この際撮影専用にカメラを買ってみよう。お金もできたし」と。どうせならいいカメラだろうと思い、一眼レフを色々調べることに。CanonかNikonか…と迷いつつもCanonのエントリーモデルに決めて一思いに購入。
一眼レフを手にして
買って初めて撮影に行ったのは上野動物園。もともと動物は好きだったし、ボッチでも被写体に困らない(悲)。初めて手にする本格的なカメラで撮影する楽しさは、難しいながらも充実感のある体験だった。
時を経て、プロレス観戦を頻繁に行うようになった時。会場にいる観客の中に、カメラを構えている方がちらほら。これなら自分もやってみようと、バッグに一眼を入れていざ会場。ここで初めて「人物を撮影する」というシーンに出くわすことになる。
当然風景や植物と違い、相手に意思があるため色々難しい。また「自分が撮られるのは嫌だというのに、自分が撮るのは楽しい」というギャップにも改めて直面した。しかし元々好きだったプロレスを、目で見るとはまた違う光景として残せる楽しさは、他では味わえない感覚であった。
この感覚を俯瞰で考察したときに行き着いたのが、「自分は写らなくていい。撮ることで相手が喜んでくれたり、見る人の印象に残ったり、そういった影響を残せればいい。」という結論。撮られたくない、と撮りたい、は二律背反ではなく、同時に存在していても無矛盾であり、自身を表現する上で欠くことのできないアイデンティティである。
自分が撮られるのは嫌でも、世の中全員が同じではない。また撮影するのは人間に限らず動物や植物、風景と様々ある。であれば、「撮られることに抵抗がない人を撮影して感動してもらえる」、「自分の見た美しい光景を共有する」というポリシーの元カメラを握ればいい。
そこに存在するのは、自分の目標とする諸カメラマンへのジェラシーと、被写体に対するリスペクトでいい。
だから私は今日もツーショットを撮りません。推しの近くで気持ち悪い顔したくないもん。