「いーれーてー」を言えないボク
教員としての【王道】ではとてもじゃないけど敵わないようなすごい人がいっぱいと挫折、そこから部活顧問拒否したり、定時出退勤したり、Instagramで発信したり、兼職兼業届けを出したり、学校の外の大人を学校の中に入れたり、町内の子ども会の運営をしたりと【邪道】な教員を続けているてつです。
昔からそうだった。
ボクは自分から誰かを誘って遊ぶのが苦手だった。
自分からすでに出来上がっている輪の中に入っていくのも苦手だった。
(ちなみに母ちゃん曰く、幼稚園の頃は「うちで遊ぶ人ーこの指とまれー!」とか言って、やたら友達を家に連れてきて大変だったらしい。そういう時代もあったw)
基本的には、いつも誰かが誘ってくれるのを待っていた。
誘われたら何事もないかのように「いいよ」と言ってた。
けど、内心むちゃくちゃ嬉しい。
ただ厄介なことに、誘ってもらえないと機嫌を損ねていた…
これは遊びの誘いだけでなく、
落ち込んでて「誰か優しい声をかけてほしいな~」って時も同じ。
自分から「ちょっと聞いてよ〜」と言えればいいのに、そうはいかない。
誰かが察して「何かあったの?」って聞いてくれるのを待つ。
聞いてくれたら平静を装いつつベラベラ喋るし、愚痴る。
でも聞いてもらえなかったら機嫌を損ねる……。
今こうして文章にしながら思うけど…
これ、とんでもなく面倒くさ〜いやつじゃない?w
しかし。
実は、未だにそんなところがある。
たとえば__
カミさんに、仕事やら子どものことでモヤモヤを聞いてほしい時、
教室で生徒たちや職員室で同僚たちと関わる時、
友人宅でポケカをみんなでワイワイ楽しんでいる時、
など。
そんな場面で、「誰か気づいてくれないかな」と期待してしまう自分がいる。
で、ふと思ったんだ。
ボク、ずるいなって。
自分はリスクをとらず、相手にだけリスクを負わせているなと。
その上、おいしいとこは自分が貰おうとしているなと。
ん?
どういうことかって?
つまり、ボクはただ待っているだけだから何のリスクもない。
(せいぜい、「待ってるけど何も起きなかった」というリスクくらいw)
もし、ボクから誰かを誘ったり、「ちょっと聞いてよ〜」と声かけたら、
断られるかもしれないし、「今は無理!」と言われるかもしれない。
そういうリスクがある。
だけど、ただ待っていればその「断られるリスク」は回避できる。
待っていて誰かが声をかけてくれれば、ノーリスクでボクの希望は叶う。
一方で、ボクを誘ってくれたり声をかけてくれる相手にはリスクがある。
たとえば、ボクに断られたり、「別に何でもねーし」とあしらわれる可能性がある。
それでも誘ってくれたり、声をかけてくれたりする人がいる。
ほら、ボク、ずるいでしょ?
とりあえず、こうして気づいて言語化できたから、
2025年から勇気振り絞って自分から誘ったり、声かけてみるようにする。
(こういう時にこそ「嫌われる勇気」の使い所ってやつw)
ちなみになんだけど、この症状は、初対面の人には発症しない。
むしろ初対面の人にはびっくりするくらい「嫌われる勇気」をもって果敢に関わりにいける。
まぁ、ここ数年の変化だけど。
(ここの言語化はまたの機会にでもw)
厄介なのは、親族や友人みたいな親しい間柄とか、毎日顔を合わせる生徒や同僚の時だ。
ある程度互いを知っている関係性で、この症状は大いに発症する。
この謎はまだ解明できていないし、言語化もできていない。
もしこの記事を読んで「ひょっとしてこういうことじゃない?」と、心当たりがある人がいたらぜひコメントなどで教えてほしい。
何はともあれ、2025年は自分から「いーれーてー」を言おう。
うまくいかなくても、その結果も味わえるイケてるおじさんになりたい。
今はそう思う。