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日本には野球がある。ーファンから見た球界再編ー《プロ野球リポート》

2004年当時、衰退の一途を辿るかと思われたプロ野球界に対して、
『すがるような想い』と『まだまだ捨てたもんじゃないという希望』を引きずっていた。

この年、消滅する大阪近鉄バファローズを中心として、プロ野球全選手・プロ野球OB・その他プロ野球界に関わる全ての人と全プロ野球ファンを巻き込んで、プロ野球界を見直す衝撃の事件が起きる事となった。

2001年の猛牛打線から、わずか3年

2001年、大阪を拠点にしていた唯一の球団『大阪近鉄バファローズ』が、とんでもない破壊力と、ストーリー性さえ感じるシンデレラストーリーを紡いでリーグ優勝した。

中村紀洋、タフィ・ローズという破壊神を擁し、岩隈久志というニュースターも生んだ。

最後は、
【代打サヨナラ満塁優勝決定本塁打】
という、これ以上の形容詞をつけようがない史上最高のホームランを放った北川博敏が時の人となった。

大阪は空前のバファローズフィーバー。

阪神タイガースファンの私も、この年だけは地元・近鉄バファローズを応援した。

しかし、そこからわずか3年。

2004年に、大阪近鉄バファローズは消滅した。

大阪近鉄バファローズ球団の消滅

プロ野球球団はなくならない。

無意識で私はそう思っていた。

多くの野球ファンがそう思っていたことだろう。

1988年、阪急からオリックスへ、南海からダイエーへ。

球団の身売りというもの自体、15年間行われていなかった。

前年の2003年、星野仙一監督率いる阪神タイガースが、18年ぶりにリーグ優勝したことで、プロ野球界が再び盛り上がるんだろうな、と思っていた。

翌年のシーズン、中盤に差し掛かろうかという2004年6月13日。

『オリックス・近鉄合併』の見出しの号外が配布された。

地元大阪の球団だ。

本社が大阪にある阪神タイガースの人気が、地元にうまく根付いていたとは言い難い球団ではあったが、熱狂的なファンがいたことで有名な球団だ。

混乱は大阪中だけではなく、日本中に広がった。

合併への疑問

大阪の難波近辺にいた私は、『オリックス・近鉄合併』の号外を受け取ることはできなかったが、友人が持ってきたので見せてもらった。

まず「合併ってなに?身売りじゃないの?」という疑問が浮かんだ。

球団はなくならない、と思っていた理由は、
『球団は経営に行き詰まる=身売りする』
と思っていたからだ。

絶対そうなると思っていた。

この年のシーズン前、近鉄球団が経営が困難になっていて、チーム名のネーミングライツ(命名権)売却するという構想を発表していた。

ファンの大反対に遭い断念したが、今思うと限界だったのだろう。

どこかの企業に命名権を買ってもらって、その企業がうまみを感じれば、球団丸ごと買い取ってもらおう、と考えていたのではないか。

近鉄本社の業績がかなり悪くなっていて、赤字を出し続ける球団を運営していけない。

ネーミングライツ売却がうまく行かなかった事で、球団経営が完全にとん挫したのだろう。

親会社を潰すわけにはいかない。

近鉄という企業はとっくに詰んでしまっていて、身動きが取れなくなり、リーグ優勝したことで身売りという選択を封じられてしまっていたのかもしれない。

避けられない合併

近鉄は球団を手放し、選手の一部はオリックス球団に合流するという内容だった。

当日、試合前に両チームの選手・監督などにインタビューするも、状況は全く把握しておらず、納得できている人は一人もいなかったであろう。

直近で行われた近鉄側の会見では、球団経営の立て直しや身売りの話はなく『合流』という表現を使った。

各球団オーナーや代表にも、情報共有が行われたが、ほぼすべての球団が『合併は避けられない』との共通認識だったようだ。

球界再編の潮流

近鉄ファンだけではない。

全国のプロ野球ファンが、球場などで署名活動を行っていた。

選手会は、各球団オーナーたちと交渉を続けた。

球団側は、2005年は球団が合併して、パ・リーグ5球団制でのリーグ戦を行い、2006年以降の12球団復活という方針を示した。

しかし、裏では球団をさらに減らし、1リーグ10球団制や1リーグ8球団制への布石だったのではないかと言われている。

実際に、西武ライオンズの親会社コクドの堤オーナーが、
「西武ライオンズ・千葉ロッテマリーンズ・北海道日本ハムファイターズ・福岡ダイエーホークスの4球団間で新たな合併を模索している」
と述べたりもした。
ダイエー本社が再建を目指す為、球団の買い手を探していた事も、それを後押ししていたのだろう。

なぜ、『まず、身売り』じゃなかったのか。

球団を減らしての1リーグ制には、メリットが本当にあると思っていたのか。

最後まで疑問が消えることはなかった。

球界初のストライキ突入

合併阻止のために動いていた選手会は、9月16・17日の直接交渉を終えた時点で、議論が平行線をたどったことで、日本プロ野球界初のストライキ断行を発表した。

球団側は、ストライキに踏み切った選手会を痛烈に批判した。
法的措置も視野に入れるという内容だった。

その夜、フジテレビ系スポーツ番組『すぽると!』に出演した古田敦也選手会会長は、冒頭でファンに向けストライキについての謝罪を述べた。

視聴者からはストライキを支持する意見が殺到。

球界のために奔走する古田自身を気遣うコメントも多く、涙を流した古田敦也の姿が未だに忘れられないという人も多いかもしれない。

球界のことを本気で考えて、限界まで動きつづけた男たちの決断はギリギリの形で叶えられることとなる。

新規参入球団

9月18・19日のストライキを終え、9月22・23日に再び交渉が行われた。

主に、2006年以降としていた12球団復帰を、翌2005年の新規球団参入を模索することと、オリックス・近鉄の選手合同で分配ドラフトを行うことなどが決定された。

以前より球団買収に手を挙げていたライブドアの堀江貴文氏と、国内最大のネットショッピングモール「楽天市場」を抱える楽天の三木谷浩史氏が参入の表明をしていた。

最終的に、企業の経営体質や将来性を認められた楽天の新規参入が承認され、新球団参入が正式に決定された。

ファンの反応

新規参入の方針が発表された9月23日、近鉄消滅のカウントダウンはもう2試合となっていた。

9月24日の本拠地最終戦は、劇的サヨナラゲームで近鉄が勝利を収めた。

そして、9月29日。

近鉄の本当の最終戦の相手は、奇しくもオリックスだった。

先発は、エース岩隈久志。

合併阻止へ奔走した磯部公一、主砲・中村紀洋、あの優勝を決めた北川博敏の三人がクリーンアップに名を連ねた。

近鉄でプレーした大島公一や吉井理人も出場。

合併球団同士、笑顔と涙のラストゲームを全力プレーで終えた。

近鉄球団消滅と共に、ブルーウェーブとしても一旦歴史を閉じることとなった。

日本にはプロ野球がある。

球界再編問題で人気が凋落しかけていた日本プロ野球。

パ・リーグは人気の低迷が深刻だった事が大きく影響していた。

しかし、その少しあと。

プロ野球日本代表がWBC世界一の栄冠をつかんだ2006年。

この年、パ・リーグ人気上昇のきっかけを作り出すこととなる。

近鉄球団消滅と球界再編で動乱の年となった2004年が、北海道移転した初年度だった日本ハムファイターズだが、そこから3年間、大きな話題を振りまき続けた。

その中心にいたのが、私の憧れの人・新庄剛志なのだが…

それはまた別の機会に話すこととしよう。


2006年8月10日発売、
Sports Graphic Number 659号の表紙にあるコピー

【 日本には野球がある。】

というフレーズが、ずっと忘れられない。

WBCの優勝で、日本プロ野球は捨てたもんじゃないなと、本気で思えた。

もしかしたら、このWBC優勝がなければ野球を見ることはやめていたかもしれない。

球界再編の流れから、ずっと考え続けていた「野球の力」に突き動かされた瞬間だったのかもしれない。

まだまだ、野球は面白くなる。

面白い野球が見たい。

どこが勝って負けて、なんていうことじゃなくて、

面白い野球が見たい。

ダルビッシュ有、田中将大、前田健太、大谷翔平…

ベースボールの最高峰MLBで躍動している選手もいる。

本当の、本物の、プロ野球の力を見せてくれ。

≪ 資料 ≫
Sports Graphic Number 659号
https://number.bunshun.jp/articles/-/235

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