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何処で馬は水を浴びたのか?
軽井沢という言葉は、なぜか、まったく使われることがなかった「甘い幸せな生活」ですが、沓掛、という古い地名は使われていますから、物語が中軽井沢、広く軽井沢を舞台にしていることは間違いないように思われます。
そこが明らかに軽井沢であるにもかかわらず、なにゆえに名前は書かれることがなかったのか。
理由はいくらでも見つかりそうですが、一つあえて挙げてみます。みますと、おそらく、の域を出ませんが、作者が現実の軽井沢に不案内であったからではないでしょうか。
今なら、GoogleMapがあります。が、25年前は違います。当時は新幹線もありません。個人的な話では、自動車も持ち合わせていませんでした。
全て、二度かそこらの模糊とした旅の記憶と、読書を含めたメディアでの総合的イメージを、避暑地というフィルターを通して、おそらくはこうであろう「軽井沢」へと言葉にして並べていったのと併せて、「三日月姫」という松本隆さんの小説の強い印象に透かされたのだと、最近になり思い出しました。
「軽井沢」は、ほんとうに遠い場所でした。おそらくはいまも。
しかし、故に、書かれた「軽井沢」は現実の軽井沢と地理的な齟齬をきたします。
三人の登場人物が、水浴びをする馬を目撃した場所について、現実の軽井沢の地理を知った作者は、のちに考えてしまうことになってしまいました。
馬は何処にいたのか。
軽井沢から北へ向かうと群馬県の北軽井沢に行けますし、そこにはそれらしい牧場もあります。
なら、そこへ自転車で行ったのでしょうか。
「むりじゃね?」
いま風に言えば。
では馬のいる牧場は何処にあるのでしょう。
ようやく最近になってわかりました。何処、を探していては、らちが開くわけがありません。何時、を探すべきだったのです。
軽井沢観光協会のホームページにあった文章を引用します。
~[コラム]長倉の牧(写真 駒止めの土堤)~
長倉の牧は平安時代に設けられた官牧(かんぼく)の一つで、これは朝廷へ献上するための馬を放牧するための今でいう牧場のことだ。
軽井沢高原一帯を占める広大な官牧であったと考えられている。ここから朝廷へ馬を納められ、駅馬などの交通産業上、大きな役割をはたした。
信濃国には16の官牧があって、佐久郡には長倉牧・塩野牧・菱野牧・望月の牧がつくられた。(『吾妻鏡』より)
長倉牧は中軽井沢の千ヶ滝プリンス通りへので発見された「駒止めの土堤」や、南軽井沢の「馬越」「馬取」などの地名から、浅間山の南麓で、馬が飼われていた。
佐久地方には「御牧(みまき)」という地名や、「望月の駒」の伝説が残っているが、望月牧からは年に30足もの馬が送られ、拾遺集には
「あふ坂の関のしずみに影見えて いまや引くらむ望月の駒 (紀貫之)」
の歌をはじめたくさんの和歌が残されている。
長倉の牧についての史料は少ないが、奈良・平安時代には多くの馬が飼われていた。
いやはや驚きました。
主人公たちは空間だけでなく、時間も移動していたんですね。
それでハッと気がつくのですが、そもそも「沓掛」はじまりじゃないですか。
作者の鈍感には呆れるばかりです。