子育てで何よりも大事にしたい「好き」
我が子は重機(建機?)が大大大大好き人間。
その愛は、三度の飯やおやつへの集中力を9割ほど奪い取っていくほどの威力をもちます。
おもちゃで遊ぶことはもちろん、重機の出てくる動画も大好き。日本語で作られた動画に限らず、ありとあらゆる言語で作られた動画を食い入るように見ています。
(日本語すらままならないのに英語、す、スペイン語?次はフランス語聞いてるわ……)
でも嬉々として見ているその姿を目の当たりにすると、「ほかのにしたら?」なんて言う気が失せます。思う存分見て聞いて、あわよくばマルチリンガルにならないかな~とすら思う今日この頃(笑)。
しかし私と違う対応をする人がいます。
母です。
さすがに、やめるように促したり、消してしまうなんていうことはしません。結果的には好きに見せています。
ただ、茶々を入れます。馬鹿にします。
ある時はガチャ〇ンの声が聞こえてくると「この声嫌いなのよね」と本当に嫌そうな顔をしながら言う。ある時は動画内で流れてくる効果音を、孫を笑わせるために繰り返すのではなく、馬鹿にしたように真似する。
その姿を見るたび、かつての自分を思い出します。
リビングで大好きな人形遊びをしていたら、台詞や世界観を馬鹿にされた。
こっそり楽しく描いていた漫画を勝手に読んだ挙句、あるコマの中にご丁寧にボールペンの赤字で「アホ」と描かれた。
勉強、読書以外の趣味を片っ端から「くだらない」「時間の無駄」と言われた。
その他細かいことが重なり、私は母の前で好きなことをしなくなりました。
リビングの隅でこっそりやり、自分の部屋ができたら早速にこもりました。何が好きとか、今こういうのをやっているとか、見せるのが嫌になりました。でもやはり子どもとして、親に認めてもらいたい、「良いね」と言ってほしいという思いを捨てきれず、ついうっかり話して、「くだらない」と一蹴され、倍傷つくということも繰り返しました。
そういうことが続いて何が起きたかというと、何か「面白そう」「楽しそう」「やってみたい」と思っても、心のどこかで「ばかばかしい」「くだらない」「どうせやっても……」という思いも沸いて出てきて、結局負の思いに負けてしまい、好きなことも段々しなくなっていきました。
別に無気力なわけではないのです。「好き」という気持ちは自然と湧き上がってくるもので、何かに止められることはありません。
ただ、その「好き」を原動力として何かを始めるという実行力が決定的に欠けてしまうのです。
「好き」を潰すことにより、「好き」から始まる無限の可能性を潰すことになるのです。
打算、損得勘定などなく、ただただ純粋な「好き」に出会い、「好き」を突き詰めていける時間も労力もあり、能力も日に日に身に着けていける子ども時代に、「好き」からエンジンペダルを思いっきり踏める、そしてそんな自分をただただ受け入れてもらい、見守ってもらえるという経験を積むことが、本当に大事なんだと、自分の身をもって思い知りました。
だから私は子どもの「好き」を受け入れて、見守っていきたい。「好き」という気持ちを何よりも大事にしたいと思いました。
言葉にすると、そんなこと当然だろうと、わざわざ宣言するものではない、なんならチープにすら感じると思います。
ですが、「好き」を受け入れてもらえた経験があまりない私にとっては、反面教師であり、戒めであり、毎日毎日心の中で自分に言い聞かせている言葉なのです。
我が子にとって母は祖母にあたりますが、所詮祖母です。最悪無視すれば終わります。
茶々を入れる背中に向かって「いやあなたの好み聞いてない」と笑顔でツッコんでくぎを刺しています。
あとは、そろそろ重機飽きてきている私の気持ちとの戦いです(苦笑)。