麗しき毒蛇の復讐 第4章
第4章 邂逅
結花の家を出た翌日。
優子はJR新宿駅に着いた。結花から貰った服ではなく、アイロンの効いたセーラー服を着ている。
今日は東と会わなければならない。結花から貰ったシックな服で東に会うのは、やはりどこか気恥しく、服装についてとやかく言われたくもなかった。
もっとも、東はこれまで優子の服装について、彼女に何か言ったことは一度もないのだが。
ここで再び優子がスマートフォンの電源を入れ、メッセージをチェックする。
仮に自分がこの駅にいることがR機関に探知されたとしても、JR・私鉄・地下鉄といくつもの路線が混在する新宿駅で、私がどの電車に乗ったかまでは奴らも確認はできないだろう。
東からの新しいメッセージはない。当初の予定に変更なしということだ。
生きていれば……。
すぐに電源をオフにし、優子は数多くの人でごった返す新宿駅のコンコースを歩き出した。十四番線から山手線に乗り東京駅に向かう。
通勤ラッシュの時間はとうに過ぎ、電車内はそれほど混雑していない。だが席はどこも空いておらず、やむなく優子はつり革を右手で掴んだ。
撃たれた右肩もまだ痛むが、それでも左手よりはまだましだ。しかし、やはり電車が揺れる度、痛そうに顔をしかめる。
やがて電車の中で、そっとため息をついた。
(大したもんだわ、R機関。そう簡単に見逃しちゃくれないみたいね)
優子は自分がいる車両内で、少なくとも二人のダークスーツを着た不審な人物を確認していた。
山手線の電車が東京駅に着いた。扉が開き、他の乗客に紛れ駅のホームへ足を下した次の瞬間、優子は即座に走り出した。器用に乗客の隙間をかいくぐると、階段も三段飛び、五段飛びで駆け下りていく。セーラー服のスカートが翻るのも気にしない。
駅のコンコースを歩く、多数の歩行者を必死に避けて走りながら、優子は一度だけ後ろを振り向く。追いかけてくるのは五人と見た。さっき、電車の中で見た奴らの顔も確認した。
優子は半開きになっている関係者専用の扉を目ざとく見つけ、とっさにノブを回した。扉を開けると、急いで奥へと逃げ込んだ。すぐさまR機関の工作員達が優子の後を追いかけてゆく。
その時、優子達が走る様子を、やや離れたトイレの出口付近で見ていた、一人の女性がいた。
通路の奥、いくつかの段ボール箱やカラーコーンが置かれた無人の倉庫のようなところで、人知れず一人の少女と五人の男達の戦闘が繰り広げられていた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
優子の息が激しく上がる。
すでに二人の工作員をヨーヨーで弾き飛ばし、残る敵は三人だ。しかしヨーヨーを投げられるのは、あと一度が限界か。いや、それさえも怪しい。
今にも、優子の左腕は痛みと痺れで破裂しそうだ。銃で撃たれた脇腹と太腿、さらに右肩の激しい痛みもぶり返していた。
最後の力を込めて、優子が敵を目がけヨーヨーを放つ。だが優子のヨーヨーに先ほどまでの勢いはなく、無念にもヨーヨーは敵にかわされてされてしまった。
戻って来たヨーヨーを受け止めた衝撃で、優子の左腕が、もうこれ以上は耐えられないと悲鳴を上げる。
激痛に顔を歪めたまま、優子はついに左腕を押さえ、膝をついてしまった。
左腕はもう使えない。ならばと、半ばヤケクソでヨーヨーを左手から外し、右手に持ち替えようとしたところで、優子がヨーヨーをポトリと床に落としてしまった。
ヨーヨーは非情にも、コロコロと後ろへ転がっていく。
だが、優子はヨーヨーを目で追わず、しかと、敵の男達を睨み続けた。視線を逸らしたらその瞬間に敵のナイフの餌食となり、殺られるとわかるからだ。
工作員達はナイフを手に持ち、ねっとりとした下品な薄笑いを浮かべながら、優子に近づいてくる。
彼らの醜い顔を睨み付けながら、意を決し最後の肉弾戦に挑もうと、優子が腰を浮かしかけた、その時。
「ちょっとこのヨーヨー、借りてもええか?」
優子の背後から、地方訛りが混じった女性の声がした。
「何だお前は! 出ていけ!」
「邪魔だ! ケガしたくなければ向こうへ行ってろ!」
工作員達が怒鳴り声をあげ、女性に鋭い睨みをきかせる。
「何の因果か、またこのヨーヨーを手にする時が来るとはね」
ヨーヨーにチェーンを巻きつけながら、女性が言った。
「プロテクターも手袋も無しで、投げれるのはせいぜい三、四回ってとこか」
男達を見回し、静かにつぶやく。
「十分じゃ」
「出てけっつってんだろうが!」
ひときわ背の高い工作員がナイフを振りかざしながら女性に近づく。
「たった一人の女の子を、大の大人が寄ってたかってイジメて。おまんら、恥ずかしゅうないんか!」
左手の手首を右手で支える、独特のフォームで女性がヨーヨーを投げ放つと、ヨーヨーは不思議な回転をしながら工作員の胸にぶち当たる。工作員が大きく弾き飛ばされ、倉庫の壁に頭をぶつけると動かなくなった。
すかさず二投目で、もう一人の工作員も無力化する。ヨーヨーを鳩尾に食い込ませた男は白目を剥き、口から吐いた血が混じった自分の胃液と共に吹き飛び、倉庫の壁に激突して失神した。
戻ってきたヨーヨーを、左の手のひらでがっしりと掴んだ女性が、片眼を閉じながらつぶやいた。
「さすがに、このヨーヨーはきついちや」
最後の工作員が突き出したナイフを、女性が左手で持ったヨーヨーで叩き落とし、すかさず工作員の胸に強烈な肘鉄を食らわす。
「グエヘッ!」
相手にまだ意識があると見た女性は、すぐさま距離を取ると、工作員目がけ、また独特のフォームでヨーヨーを投げ放った。五メートルほど弾き飛ばされ倉庫の壁に叩きつけられた工作員が、その場にぐったりと崩れ落ちる。
ヨーヨーの側面を開き、桜の代紋を確認した女性は、「このヨーヨー、投げれるのはせいぜい十回まで。それも専用のプロテクターを付けての話」と、膝をついた優子にヨーヨーを手渡しながら話しかけた。
肩の付近まで黒い髪を伸ばし、キチンとしたスーツを着こなす、身なりの上品な中年女性だ。
「あ、ありがとう……ございました」
「その様子だと、そのヨーヨーはもう使わんほうがいいと思う。腕が使いもんにならなくなる」
「あ、あのう、あなたは?」
「さあ?」
女性は不思議な笑みをたたえながら、優子を肩でささえて歩き出した。
近くの扉を開けると、そこは多くの人が行き交う東京駅のコンコースだった。
優子をささえながらコンコースに出て、さて、ここは駅構内のどこらへんだろうかと、女性が辺りを見回していると、すぐに二人のスーツ姿の男性が駆け寄って来た。
「どこ行ってたんですかー。探しましたよ! 副社長!」
少し髪の薄くなったグレーのスーツを着た男性が、息を切らせながら女性に話しかける。
「痴漢に襲われていた女の子を、助けていただけです」
「早くしないと、先方との打ち合わせに間に合いませんよ!」
額に汗をかき、紺のスーツをビシッと決めた若い男性が、女性と自分の腕時計を何度も見ながら焦り気味に口を出した。
自分の左腕の腕時計に、ちらと目線を落としながら女性が言った。
「わかっています。新幹線の時刻まで、まだ七分余裕があります」
女性がウインクをしながら優子にささやいた。
「じゃあ頑張ってね。可愛い後輩さん」
その声には優しさと期待と、労いの思いが込められているように、優子には思えた。
「さあ、急ぎましょう」
二人の男性を引き連れて、女性は人々であふれるコンコースを、東海道新幹線の乗車口へ向かって足早に歩いていった。
優子は深々と女性にお辞儀をし、彼女が人混みに紛れた後もその場に佇み、まるで女性の後ろ姿がまだ見えているかのように、しばらく黙ってじっと前方を見つめていた。
やがて常磐線の特急電車に乗るために、急いで身を翻した。
宮崎にある山寺、達心寺。ここは唯が物心付いた時から東京に出るまで住んでいた場所であり、今は忍者集団・風魔の拠点のひとつとなっている。
かつて風魔の実力者達の多くは、果心居士との壮絶な戦いの中で消えていったが、その後残されたわずかな者達の手により、風魔は少しずつ復興してきた。
唯は風魔鬼組・頭の地位を別の者に譲り、結花と共に、ここ達心寺や他の風魔の寺で忍術・体術の訓練を少しずつ続けてきた。ただ、果心居士亡き後の平和な世となっては、それは結花が言っていたように、ごく穏便なものに過ぎなかった。
今日、唯と結花はこの寺の住職、櫂庵(かいあん)に会いにやって来た。
櫂庵は唯の祖父で育ての親でもある帯庵(たいあん)の弟子の一人で、帯庵亡き後、達心寺を引き継いだ。
唯と結花が今、最も信頼している人物の一人である。
唯達三姉妹が陰との戦いに明け暮れていた頃、外部との接触を一切遮断し、一人北海道日高の山中、暗い洞窟の中で修行を行っていた櫂庵は、他の風魔の者からはすでに死んでいるものと思われていた。
朝はまだ暗いうちから起床し朝のお勤めを始め、日没と共に眠る生活を続けていた櫂庵は、あの赤い凶星の出現に全く気付かなかったことを、後に大いに恥じた。
やがて山から下り、師と仰ぐ帯庵がすでにこの世を去ったことを知った櫂庵は、自ら進んで達心寺を引き継ぐことを宗門に申し出た。
彼は壊滅状態に近かった風魔の立て直しに努め、唯、結花、由真の三姉妹とも親交を深めてきた。暗闇指令もまた櫂庵との接触を続けていたのである。
「唯殿、結花殿。久方ぶりにござりますな」
櫂庵が白い眉毛とともに目尻を下げ、にこやかな顔で二人に語りかける。
「櫂庵和尚、ご無沙汰しております。今日は、あるお願いがあって参りました」と、唯が硬い表情のまま、口を開いた。
「願い? またそれはどのような?」
「ひとつは、今日より三日間、我ら姉妹に『風魔練魂修鍛の行』を受けさせていただきたく、なにとぞお願い申し上げます」
唯が畳に額を付け、櫂庵に願い出る。
「もうひとつは、『風魔探身の術』と『風魔操魂の術』、これらの再びの手解きと、必要な法具を是非とも私どもにお貸し願いたい」と結花が続く。
「ふむ、確かに風魔練魂修鍛の行は、短期間とはいえ行者の身体能力を飛躍的に高めてくれる。ある程度歳を取った者でもな。だがあの行は本来、通常は七日、最短でも五日はかけて行うもの。それを三日でやり遂げようというのか?」
「はい」と、顔を上げた唯と結花が同時に答えた。
櫂庵は二人の目を見据え、きつい口調で問い掛けた。
「良いのか? その歳での修練、さらに二つの術。魂を削る修行となるぞ?」
その問いに唯と結花が答える。
「もとより」
「覚悟の上」
唯が思う。
(私達が行くまで死なないでよ。優子)
時間きっかりに、東は現れた。
二枚目俳優としても立派に通用しそうな彫の深い顔貌に疲労の影は隠せないが、切れ長の眼に宿る光は、前に会った時よりも一段と鋭さを増したように見える。
暗闇機関にリクルートされる以前は、CIAあるいはモサドの下で働いていた、とも噂される三十代半ばのその男は、壁を背にしたソファーに座る優子と一人分席を空けて座ると、ひとつの手提げの布袋を優子に手渡した。
東に特にケガをしている様子はなさそうだ。優子は少し安堵する。
「中にはヨーヨー三個と現金、当面のアジトとなる部屋の鍵と住所を書いたメモ、それと新しいスマホが入っている」
低い、しかし明瞭な声で東が話す。
確かに今の時間帯、この地方空港のロビーに人影は少なく、話を他人に聞かれる心配はなさそうだ。
「どうして三個もいるの?」
「前のようなこともあるし、今後も何が起きるかわからん。本部に残っていたヨーヨーはその三つで全部だ。なによりそれを使えるのは優子、もうお前しか残っていない」
「……。ひとつ教えて。あの後、純子やみんなは……」
「あの建物にいた学生刑事は全員死亡した」
ギュッと目をつぶり、優子はソファーの上で深く俯いた。
「敵のボスの正体が割れた。麗奈・氷川・アンダーソンという大富豪でアメリカ国籍を持つ元日本人女性だ。だが、それは偽りの名前にすぎん。本当の名は、海槌麗巳だ」
「海槌麗巳?」
優子にも、どこかで聞き覚えのある名前だ。
東は一枚の写真を優子に差し出した。
「三十年前に存在していた大財閥、海槌コンツェルンの創業者、海槌剛三の長女だ。剛三と麗巳は日本を自分達で支配しようと、様々な違法行為を繰り返していた。その野望を打ち砕いたのが初代学生刑事、麻宮サキだ」
(!)
優子は心の中でつぶやく。
(また、麻宮サキだ)
「海槌剛三は自ら命を絶ち、麻宮サキと海槌麗巳は共に相討ちとなって、どちらも死んだと思われていた。だが、ひん死の重体となっていた麻宮サキを、暗闇機関が秘密裏に回収し保護していた。海槌麗巳も、なぜか生き延びていた」
「……」
「麻宮サキは今、名前を変え密かに生きている。近年、麻宮サキの生存を知った海槌麗巳は、R機関を組織し、来日と同時に復讐を開始した。自分の野望を潰し、自らを死の寸前にまで追いやった、麻宮サキと暗闇機関に対して」
「そんなこと……。そんなことのためにあんな! あんなに多くの仲間が、殺されなければならなかったの?!」
優子の目に悔し涙があふれだす。
「敵の正体がわかった以上、やることはひとつ。それまで新しいアジトに身を隠し、傷を癒やせ」
静かに優子がうなずいた。
(純子、由美、みずき、佳代子。それと死んでいった他の仲間達。あんた達の仇は絶対にこの私が取るよ!)
写真に写る、海槌麗巳のつんとすました顔を鋭く睨みつけながら、優子は心の中で固く誓った。
早坂由美、山崎みずき、泉佳代子、青山純子。優子はその四人には特別な責任を感じていた。
(あの時、私は何もできなかった。ただ、目の前で彼女達が銃弾に倒れる様子を見ていただけ。そしてあの場所から逃げ出すのが精一杯だった)
彼女達を失った最後の作戦。ずっと付きまとっていた不安。何より作戦決定時の純子の顔。
最後の作戦のひとつ前に行った、ある程度の成功を収めた救出作戦は、純子の発案によるものだった。
その作戦で、R機関に捕らわれていた、一人の学生刑事を助け出すことができた。
ただ、彼女は今も病院で意識不明の重体。けれど、自分達が救助に駆け付けなければ、恐らく彼女は死んでいたに違いない。作戦自体も、それほど簡単なものではなかった。
純子の作戦立案能力の高さは、他の仲間達からも一目置かれていた。純子がいなければ、我々はもっと早くに全滅していただろう。
最後の作戦も、また純子の発案だった。
最初は自分も乗り気だった。この作戦が成功すれば、今後の局面を一気に我々の優位に変えることができる。そう思った。
けど、作戦の詳細を純子がみんなに説明している時。私は時間が経つにつれ、なぜか言い知れない不安を感じ始めていた。何かいつもと違う、いつもの純子らしい作戦とは違うような気がしたのだ。
しかし何がどう違うのか、自分には具体的な言葉は見出せなかった。
いや、今度の作戦はある意味、起死回生ともいえる大作戦だ。だからいつもとは違うんだ。
そう自分に言い聞かせ、結局何も言い出さず、私は作戦に参加した。
そして、不安は的中した。
今から思えば、純子担当のエージェントから聞いたという情報も不審な点ではあった。あれだけの詳細な情報をどうやって手に入れたのか。
だが、今までそのエージェントの情報を基に立てた作戦が、失敗したものもあるとはいえ、まずまずの成果を収めてきたのもまた事実だ。実際、自分が最初に聞いた時点で、彼から得たという情報を疑うことは、正直考えもしなかった。
純子担当のエージェント本人も、すでにこの世にはいないのかもしれない。
優子は答えの出ない問いを、また自分に問いかける。
でも、いったい自分はどうすればよかったのか。私が何か違和感を覚えたとしても、その原因を仲間たちに説明はできない。
ただ不安だというだけで作戦を否定することは、仲間との、特に純子との信頼関係に傷をつけるだけだと思った。
それに仮に自分が、純子に何か隠していることはないかと問い詰めたとしても、彼女の弟の命がかかった状況で、純子が弟を人質に取られていることを、素直に自分達に話しただろうか。
当然、弟の命を盾に口止めされていたに決まっている。
何より、ひとつだけはっきりしていることがある。
それは、例えR機関の連中が捕らわれ命を脅かされようと、純子の弟の居場所を我々に明かすということは、現実的ではないということだ。純子がそのことに気が付かない訳がない。
純子も考えに考えたのだろう。どうすればこの困難な状況を一番良い方向に持っていくことができるのか。
いや、というよりも、弟の命も仲間の命も失わせずに済むためには、考えうる僅かな可能性に賭けるしかなかった、というべきか。それが、最後の作戦だったとすれば。
しかし、その作戦は必然的に仲間の命を大きな危険に晒すことになる。純子もそのリスクの大きさは痛いほどよくわかっていたはずだ。
では、他にどうすればよかったのか。いったいどういう手段が、純子に残されていたというのか……。
最後の作戦決行が決まった時、一瞬、何とも言いようのない表情を浮かべた純子の顔を、優子は今も忘れることができない。
「次に落ち合う時間と場所は、新しいスマホに連絡を入れる。そいつはうちの天才エンジニアが仕込んだ特注品だ。だが電源は起動してから五分以内に切れ」
東の言葉にふと我に返った優子は、布袋の中からひとつのヨーヨーを取り出し、そっとスカート左のポケットへ入れる。
優子が顔を上げると東の姿は、もうどこにもなかった。
つづく