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麗しき毒蛇の復讐 第2章

第2章 鳥

「藤川先生。この子、助かるよね?」
体中に包帯を巻かれた優子が点滴を打ちながら眠るベッドのそばで、心配そうな目をした吉田たい子が、優子の主治医である藤川恭吾に尋ねた。
たい子の地元からは、少し離れた街に建つ藤川総合病院は、彼女が中学時代から世話になってきた病院である。特に公にできないケガを負った時に。
たい子は高校を卒業すると、すぐに若い漁師と結婚し、吉田という姓に変わり住むところも変わったが、彼女は高校時代、千葉勝浦紅(くれない)組の番長、平田たい子として勝浦近辺ではちょっとばかり名の知れた人物だった。
たい子は自分達が海から助け出した、赤いヨーヨーを持った女の子の複数の傷口を見た時、すぐにこの病院へ連れていくことを決めた。
自分のかつての経験から見れば、女の子の体に刻まれた幾つもの傷は、単なる事故によるケガではない、恐らく銃によるものだ。これは何か大きな、それも厄介なトラブルに巻き込まれているに違いない。そう判断したからである。

「今はまだ油断できん。出血が酷かったし、低体温症にもなっていたからな。あとはこの女の子の体力……、いや、運次第かもしれん」
「そんな! この子を死なせたら、承知しねえからな!」
「しかも大きな三か所の銃創がある。これは本来けいさ……」
「警察に垂れ込んだら、ただでおかないよ!」
「わかっておる! この藤川院長様をなめるんじゃない!」
院長の藤川恭吾はもう大層な高齢だが、れっきとした現役の医者である。威勢のよさは昔となんら変わらない。
彼は大学時代に警察から酷い目に遭わされた経験からか、何かと反権力意識が強かった。どんな目にあったのかは、たい子にも教えてくれなかったが。
「ただし、警察に秘匿したまま、この病院に置いておけるのは、七日が限度だ」

病院を出たたい子は、早速かつての高校時代の仲間達に連絡し、早乙女志織、矢島雪乃、さらに中村京子の消息を探る。
早乙女志織はたい子が彼女と初めて会った当時、二代目スケバン刑事・麻宮サキを名乗り、青狼会という闇の学生組織と戦っていた。矢島雪乃と中村京子は、麻宮サキを慕い、親友となり、彼女を手助けしていた。
彼女らとたい子は、高校時代にたい子が青狼会から命を狙われた時、またその後も青狼会から狙われた各地の学園の有志らと集い合い、共に青狼会と戦った仲である。
海で助けた女の子が持っていた赤いヨーヨーは、当時麻宮サキが持っていたものとそっくりだった。

しかし三十年という月日は、あまりにも長過ぎたのか、たい子がかろうじて掴めた情報は、矢島雪乃、中村京子は結婚し、恐らくどちらも海外に住んでいるらしいということのみ。一番連絡を取りたい早乙女志織については、全くといってよいほど何の手掛かりも得られなかった。
早乙女志織とは青狼会が滅んだ数か月後、彼女から助っ人として呼ばれた「地獄城事件」の後、負傷したたい子を見舞いに来てくれた時以来会っていない。

幸い二日目に意識を回復し、四日目には熱も下がり流動食を口にできるようになった優子だったが、今回のような事態になった経緯に関しては固く口を噤み、医者はもちろん、たい子にも決して話そうとしなかった。

「おいら、あんたが持っているのと同じようなヨーヨーを持ってた奴、知ってんだ。そいつには、ずいぶんと世話にもなったし」
古い過去を懐かしむ眼をしながら、たい子が優子に話しかけた。
「……」
「昔、青狼会っていうイカれた組織があってさ、そのイカれた連中がうちの土地を乗っ取るために、おいらを殺そうとしやがったんだ。けど、あんたと同じ赤いヨーヨーを持っていたそいつが、イカれた連中をぶっとばして、おいらを助けてくれたんだ。当時は麻宮サキって名乗っていたけど、本名は別にあったんだよね」
「麻宮サキ」の名前を聞き、優子の小指がぴくりと震える。
伝説の学生刑事とその名を引き継いだ幾人かの、これもまた伝説となった者達。そのコードネームはすでに抹消されたと聞いている。
「そいつに連絡が付けば、きっとあんたの力になってくれるぜ。今そいつの行方、手分けして探してるからさ」
「ダメです! やめてください!」
「あんた……」
「そのような人であれば余計にダメです。必ず奴らに殺されます。引退した人達を、巻き込むことはできません!」
優子の言葉に、たい子はただ黙り込むことしかできなかった。
たい子の目をまっすぐに見る、鼻筋の通った顔に宿る二つの目。その強い意志を感じさせる、美しく澄みきった優子の瞳を見つめたまま。
(やはり、この子は大きなトラブルに巻き込まれている。早くサキを、いや志織を見付け出さなくては)

日付が変わった午前二時頃、浅い眠りのなか「チリッ」というかすかな音で、はっきりと優子は目を覚ました。
最初に思い浮かべた言葉は、「ヘタクソ」だった。
かつて暗闇機関の研修所で、新人時代に何度も聞いた音だ。本当にイヤな音。
それは特殊工具でガラスを切る音だった。
(人殺しは得意でも、こいつはガラスの切断作業に、あまり慣れていないな)
窓には厚いカーテンがかかっているが、まだカーテンは揺れ動いていない。
優子はたい子が買ってくれたピンク色のパジャマのポケットに、ヨーヨーとスマートフォンをそっと忍ばせると、音を立てないよう静かにベッドから抜け出した。
やや逡巡し、ベッドのそばに畳んで置いてあった自分のセーラー服を小脇に抱えた優子は、何ひとつ物音を立てることなく、静かに暗い病室を出て行った。

さすがに昼間にパジャマ姿で出歩くのは目立ち過ぎると、セーラー服に着替えた優子だったが、問題は靴だ。海に落ちた時に自分の靴は失くしていた。
足音を立てないようスリッパも履かずに病室から出て、そのまま病院一階の廊下の窓から外に出たため、両足は白い靴下のままだった。もうかなり足の裏が痛い。
だが、見知らぬ街でそう簡単に靴屋が見つかる訳もなく、今は所持金さえもない。
仕方なく、申し訳ないと思いつつ優子は自分と背格好が似た、髪を茶色に染めキッチリとメイクをキメ込んだ一人の女子高校生に目を付けた。優子は彼女の腕を掴むと、素早くビルの陰に引きずり込む。
「悪いね。ちょっとさ、お願いがあるんだけど」

「穏やかな」話し合いの末、優子は黒い革靴を手に入れた。茶髪の女子高生は靴下のまま、無言でその場をそそくさと立ち去って行った。
「自分は学生刑事失格だな」と、優子は大きなため息をつくしかなかった。
新しく手に入れた、他人の靴の履き心地は少々ぎこちなかったが、痛みを感じるというほどではない。たぶんすぐに履き慣れるだろう。

「藤川先生。この子、助かるよね?」
体中に包帯を巻かれた優子が点滴を打ちながら眠るベッドのそばで、心配そうな目をした吉田たい子が、優子の主治医である藤川恭吾に尋ねた。
たい子の地元からは、少し離れた街に建つ藤川総合病院は、彼女が中学時代から世話になってきた病院である。特に公にできないケガを負った時に。
たい子は高校を卒業すると、すぐに若い漁師と結婚し、吉田という姓に変わり住むところも変わったが、彼女は高校時代、千葉勝浦紅(くれない)組の番長、平田たい子として勝浦近辺ではちょっとばかり名の知れた人物だった。
たい子は自分達が海から助け出した、赤いヨーヨーを持った女の子の複数の傷口を見た時、すぐにこの病院へ連れていくことを決めた。
自分のかつての経験から見れば、女の子の体に刻まれた幾つもの傷は、単なる事故によるケガではない、恐らく銃によるものだ。これは何か大きな、それも厄介なトラブルに巻き込まれているに違いない。そう判断したからである。

「今はまだ油断できん。出血が酷かったし、低体温症にもなっていたからな。あとはこの女の子の体力……、いや、運次第かもしれん」
「そんな! この子を死なせたら、承知しねえからな!」
「しかも大きな三か所の銃創がある。これは本来けいさ……」
「警察に垂れ込んだら、ただでおかないよ!」
「わかっておる! この藤川院長様をなめるんじゃない!」
院長の藤川恭吾はもう大層な高齢だが、れっきとした現役の医者である。威勢のよさは昔となんら変わらない。
彼は大学時代に警察から酷い目に遭わされた経験からか、何かと反権力意識が強かった。どんな目にあったのかは、たい子にも教えてくれなかったが。
「ただし、警察に秘匿したまま、この病院に置いておけるのは、七日が限度だ」

病院を出たたい子は、早速かつての高校時代の仲間達に連絡し、早乙女志織、矢島雪乃、さらに中村京子の消息を探る。
早乙女志織はたい子が彼女と初めて会った当時、二代目スケバン刑事・麻宮サキを名乗り、青狼会という闇の学生組織と戦っていた。矢島雪乃と中村京子は、麻宮サキを慕い、親友となり、彼女を手助けしていた。
彼女らとたい子は、高校時代にたい子が青狼会から命を狙われた時、またその後も青狼会から狙われた各地の学園の有志らと集い合い、共に青狼会と戦った仲である。
海で助けた女の子が持っていた赤いヨーヨーは、当時麻宮サキが持っていたものとそっくりだった。

しかし三十年という月日は、あまりにも長過ぎたのか、たい子がかろうじて掴めた情報は、矢島雪乃、中村京子は結婚し、恐らくどちらも海外に住んでいるらしいということのみ。一番連絡を取りたい早乙女志織については、全くといってよいほど何の手掛かりも得られなかった。
早乙女志織とは青狼会が滅んだ数か月後、彼女から助っ人として呼ばれた「地獄城事件」の後、負傷したたい子を見舞いに来てくれた時以来会っていない。

幸い二日目に意識を回復し、四日目には熱も下がり流動食を口にできるようになった優子だったが、今回のような事態になった経緯に関しては固く口を噤み、医者はもちろん、たい子にも決して話そうとしなかった。

「おいら、あんたが持っているのと同じようなヨーヨーを持ってた奴、知ってんだ。そいつには、ずいぶんと世話にもなったし」
古い過去を懐かしむ眼をしながら、たい子が優子に話しかけた。
「……」
「昔、青狼会っていうイカれた組織があってさ、そのイカれた連中がうちの土地を乗っ取るために、おいらを殺そうとしやがったんだ。けど、あんたと同じ赤いヨーヨーを持っていたそいつが、イカれた連中をぶっとばして、おいらを助けてくれたんだ。当時は麻宮サキって名乗っていたけど、本名は別にあったんだよね」
「麻宮サキ」の名前を聞き、優子の小指がぴくりと震える。
伝説の学生刑事とその名を引き継いだ幾人かの、これもまた伝説となった者達。そのコードネームはすでに抹消されたと聞いている。
「そいつに連絡が付けば、きっとあんたの力になってくれるぜ。今そいつの行方、手分けして探してるからさ」
「ダメです! やめてください!」
「あんた……」
「そのような人であれば余計にダメです。必ず奴らに殺されます。引退した人達を、巻き込むことはできません!」
優子の言葉に、たい子はただ黙り込むことしかできなかった。
たい子の目をまっすぐに見る、鼻筋の通った顔に宿る二つの目。その強い意志を感じさせる、美しく澄みきった優子の瞳を見つめたまま。
(やはり、この子は大きなトラブルに巻き込まれている。早くサキを、いや志織を見付け出さなくては)

日付が変わった午前二時頃、浅い眠りのなか「チリッ」というかすかな音で、はっきりと優子は目を覚ました。
最初に思い浮かべた言葉は、「ヘタクソ」だった。
かつて暗闇機関の研修所で、新人時代に何度も聞いた音だ。本当にイヤな音。
それは特殊工具でガラスを切る音だった。
(人殺しは得意でも、こいつはガラスの切断作業に、あまり慣れていないな)
窓には厚いカーテンがかかっているが、まだカーテンは揺れ動いていない。
優子はたい子が買ってくれたピンク色のパジャマのポケットに、ヨーヨーとスマートフォンをそっと忍ばせると、音を立てないよう静かにベッドから抜け出した。
やや逡巡し、ベッドのそばに畳んで置いてあった自分のセーラー服を小脇に抱えた優子は、何ひとつ物音を立てることなく、静かに暗い病室を出て行った。

さすがに昼間にパジャマ姿で出歩くのは目立ち過ぎると、セーラー服に着替えた優子だったが、問題は靴だ。海に落ちた時に自分の靴は失くしていた。
足音を立てないようスリッパも履かずに病室から出て、そのまま病院一階の廊下の窓から外に出たため、両足は白い靴下のままだった。もうかなり足の裏が痛い。
だが、見知らぬ街でそう簡単に靴屋が見つかる訳もなく、今は所持金さえもない。
仕方なく、申し訳ないと思いつつ優子は自分と背格好が似た、髪を茶色に染めキッチリとメイクをキメ込んだ一人の女子高校生に目を付けた。優子は彼女の腕を掴むと、素早くビルの陰に引きずり込む。
「悪いね。ちょっとさ、お願いがあるんだけど」

「穏やかな」話し合いの末、優子は黒い革靴を手に入れた。茶髪の女子高生は靴下のまま、無言でその場をそそくさと立ち去って行った。
「自分は学生刑事失格だな」と、優子は大きなため息をつくしかなかった。
新しく手に入れた、他人の靴の履き心地は少々ぎこちなかったが、痛みを感じるというほどではない。たぶんすぐに履き慣れるだろう。

優子が、とあるビルの屋上に佇む。
ここなら敵に襲われても、隣のビル、またさらに隣のビルへと屋上伝いに飛び移って、最後は三階建ての木造住宅から地上へ降りられることはすでに確認済である。
ビルの屋上へ続く扉の鍵は、途中にあった工事現場のゲート付近に落ちていた針金と、道ばたで拾ったゼムクリップを使って開けていた。これも暗闇機関の研修所で得た技術だ。
「これじゃまるでスパイ養成所だね」
そう言って笑った、仲間の学生刑事のことを思い出してしまった優子は、こみ上げてくる思いを押し殺し、今はまず、やるべきことを行った。
誰もいないビルの屋上で、優子は五日ぶりにスマートフォンの電源を入れた。これは暗闇機関から支給された特別なスマートフォンだ。病院のベッドに居る時から、何度も電源を入れたくなる衝動を抑えてきた。
電源が入ると、バッテリーの残量は三十二パーセントと表示された。まだ、多少の余裕はある。スマートフォンが起動した途端、優子は焦り気味にパスワードを入力し、暗闇機関専用のメッセージアプリを起ち上げ、自分宛のメッセージを探した。

あった! 発信日は昨日。
「よかった。東(ひがし)、生きてた!」
優子の両目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

東 智也(ともや)は、雨宮優子を担当する、暗闇機関のエージェントである。
彼は優子がモーターボートで逃げる際、おとりとなって彼女の脱出を手助けしてくれたのだった。
涙でにじむメッセージには、今度落ち合う日時と場所、それと優子のために新しくヨーヨーを手に入れたことが記されていた。東は脱出前の混乱した短いやり取りの中でも、優子がヨーヨーを失っていることに、ちゃんと気付いていたのだ。
ありがたい。今、自分が持っているヨーヨーは、そう頻繁に何度も使うことのできる代物ではない。

優子は落ち合う日時と場所を素早く深く、記憶に刻み込んだ。すぐにスマートフォンの電源を切る。
バッテリーを節約するのがひとつ。もうひとつは、支給されたスマートフォンには特殊な細工がなされているとはいえ、万が一にも電波の発信元として、自分が今いる場所をR機関に特定されないためだ。スマートフォンの電源はできれば一分三十秒以内、遅くとも二分以内に切るよう厳命されていた。
GPSの位置情報はもちろん電波を発信しない、いわゆる機内モードは、R機関からの襲撃が始まって以降、使用は厳禁とされていた。切り替え忘れを完全には防げないためである。
なんにしろ、とりあえずは一安心だ。
ひとつ大きなため息を吐き出した後、優子は思わず屋上に座り込んだ。

ふと、屋上を横切る影に気付いた優子が空を見上げた。
まぶしいほどの青空の中を、一羽のトンビらしき鳥が翼を広げ、円を描くように飛んでいる。
優雅に、何より自由に。
その鳥を仰ぎ見ながら、優子は妹がよく口にしていた言葉を思い出していた。

「私、生まれ変わったら鳥になりたい」

優子と妹の真由子は、優子が小学生三年生の時に両親を事故で亡くし、親戚に預けられた後、共に施設で暮らしていた。
高校一年生の時、優子は暗闇指令から学生刑事のスカウトを受けた。
両親を亡くすまでは、小学校一年生の時から町の道場で空手を習い、他にもスポーツは全般に得意としていた優子だったが、なぜ自分がスカウトされたのか、詳しくは聞かされていない。
確かにヨーヨーは子供の頃から母親に教えられて、よく遊んでいたので得意としてはいたが、ヨーヨーの腕前自体は自身のスカウトとは直接関係ないようだった。
「ただ、君のことは前から目を付けていた」とだけ、暗闇指令は言った。

暗闇指令は優子を学生刑事としてスカウトするにあたって、ある条件を提示してきた。
その条件とは、優子が学生刑事の任務を務める間、優子の妹の治療費を暗闇機関が全額負担することだった。
まだ幼かった優子の妹、真由子は、深刻な重い病を患っていた。
世界でも発症は稀とされる妹の病気は、当時はまだ、難病に対する国の医療費助成制度の対象ではなかった。
原因も根本的な治療法もよくわかっておらず、病院でできることは、ただ一般的な対症療法を行うだけ。
それだけなら自治体の補助もあり、医療費の負担はほとんどない。だが、症状の緩和に有効性ありと思われていた薬、それと唯一治療に効果があるかもしれないと医師から言われた薬は、いずれも公的医療保険の対象外だった。その使用に当たっては、完全に全額自己負担となってしまう。
しかも、この二つの薬は、どちらもかなりの高額なものだった。
もちろん、当時の優子に高価な薬代が支払える経済力など、あるはずもない。
優子は一も二もなく、暗闇指令からのスカウトを受けいれた。

スカウトの面談終了後、指令室から一目散に妹の入院する病院へ走って行った優子が、その後発した暗闇指令のつぶやきを聞くことはなかった。
「雨宮と頼子の娘が学生刑事になるとは、つくづく感慨深い。それにしても、優子の澄んだ目は、あの頃の頼子そっくりだ」

優子は潤沢な治療資金を得、妹の真由子も手厚い医療を受けられるようになった。
原因不明の病気になってからずっと、苦しそうな顔でふさぎ込むことの多かった真由子の表情は次第に明るくなり、やがて笑顔を見せることも増えていった。
引き受けた学生刑事の任務は、辛いことの方が多かったが、真由子の笑顔を見られることが、優子にとって何よりも嬉しいことだった。
そんな真由子が病院のベッドの上で窓の外を見ながら、口癖のようによく言っていた。
「お姉ちゃん。私、生まれ変わったら鳥になりたい。あの鳥のようにお空を飛び回って、色んなところに行ってみたい」
優子は真由子の言葉を聞くたびに「病気が治ったら、お姉ちゃんと一緒に、色んなところに遊びに行こうね」と、慰めるのが常であった。

真由子は、優子が学生刑事になってから約一年後、突如容態が急変し、静かに息を引き取った。
だが、今でも優子は学生刑事を続けている。
優子は真由子が、また笑顔を見せてくれるようになったことを、密かに暗闇指令に感謝していた。真由子の笑顔は優子にとって、何物にも代えがたい宝物のようなものだった。妹の笑顔はもう見られないものと、一時は諦めたこともあった。何より入院当初には考えられないほどの安らかな顔をした、真由子の最後だった。
それに、優子の周りには同じような境遇を抱えた学生刑事の仲間達がいた。彼らとは幾度も助け、助けられた仲だ。
優子は自分なりの「やりがい」というものを、学生刑事という職務と、仲間との絆の中に見出していた。

けど、その仲間達も、たぶんもう……。

いつの間にか深く俯いていた優子は、顔を上げ目の前に垂れ下がった前髪をかき上げるとゆっくり立ち上がる。スマートフォンをセーラー服のスカートのポケットに入れると、静かに歩き始めた。
屋上に吹いた一陣の風が、優子の黒髪を優しく撫でながら、青空の彼方に舞っていった。

甘かった。
ビルを出てからわずか五分も経たずに、優子は自分の視界にR機関の工作員らしき人影を捉える。
近くにあった居酒屋やラーメン店、美容室といった小さな店が立ち並ぶ路地を見付けて入り込み、さらに枝分かれした路地へ進んだあと、行ったり来たりを繰り返しながら敵を撒こうと試みる。しかし、気が付いた時には、いつの間にかひと気のない袋小路に優子は追い詰められていた。
前方と左右はコンクリートの高い壁だ。手掛かり足掛かりになるようなものは、一切ない。
優子は戦闘を覚悟する。スカートのポケットから黒革のグローブを取り出し、左手にはめ、ヨーヨー掴みながら後ろを振り向いた。
敵は全部で六人だ。全員同じような黒い服を着て、サバイバルナイフを手にしている。一人の工作員が前に進み出た。
そのまま、戦闘開始。

優子は最初の一撃で、立ち向かって来た敵をヨーヨーで四メートルほど弾き飛ばした。
たて続けに敵が投げた複数のナイフを、アスファルトの上を転がりながらかわすと、すかさずヨーヨーで二人目の敵をなぎ倒す。敵は血反吐を吐きながら吹き飛ばされ、激しく回転し、アスファルトの上で動かなくなった。残りの工作員達はその様子を見て一瞬ひるんだ。
優子と工作員達が、お互いに睨み合う。
だが優子にとって、所詮、病み上がりの上の多勢に無勢でしかない。
派手に動き回ったせいで、優子の太腿と脇腹さらに右肩の傷口が開き、またも出血し始めた。
元々左腕の痛みは完全には回復していない。右手も撃たれた肩のせいでまだ十分に力が入らない。
おまけにこの極太のヨーヨーは、確かに破壊力こそ抜群だが、反動があまりにも大き過ぎる。ヨーヨーを掴んだ優子の左手の痛みは、すでに耐え難いほどになっていた。左腕は、あとどれくらい持ちこたえてくれるのか。

続けざまに襲いかかってきた敵に対し、足技で対抗する優子だったが、一瞬の隙をつかれ右肩の傷口付近をナイフで切り裂かれた。
歯を食いしばって痛みに耐え、優子は三人目を右足で蹴り飛ばし、その敵から急いで距離を置くと、ヨーヨーで三人目の敵を弾き飛ばす。男は白目をむき、胃の中身を吐き出しながら吹き飛んだあと地面にうつ伏せになった。
だが、戻ってきたヨーヨーを受け止めた途端、優子はあまりの激痛でヨーヨーをしっかりと手のひらで掴むことができず、極太のヨーヨーをアスファルトの上に落としてしまう。
優子の左腕に落ちたヨーヨーを拾い上げる力は、もう残されていなかった。

三人の敵工作員がサバイバルナイフを手に、優子ににじり寄って来る。
左腕をだらりと下げ、ヨーヨーを引きずりながら後ずさる優子の背中に、行き止まりとなったコンクリートの壁が接触した。
(畜生……、ここまでか。仲間の仇、何としてでも取りたかった……)
チラリと諦めの言葉が優子の脳裏をよぎった、その瞬間。
優子の視界をキラリと光る何かが横切り、先頭に立つ敵の顔面を切り裂いた。
思わず顔を抑え、唸り声を上げながら工作員がその場にうずくまる。
(なんだ? 何が起きた?)
優子は左腕を下げたまま、辺りを見回した。
すると、どこからともなく買い物袋を持った一人の女性が現れ、手に持つ袋を優子に向け放り投げると、顔を切り裂かれた男に近づき、そのまま男の頭を、乱れるスカートもお構いなしに右足で思いっきり蹴り飛ばした。蹴られた工作員は気絶して吹き飛んだ。
すぐに後ろを振り向きながら、別の男のナイフを手刀で叩き落とすと、すかさず鳩尾に強烈な肘鉄を食らわす。男はひと言も発することなく、うつ伏せになってアスファルトに沈んだ。
最後に残った男が突き出したナイフを、軽い身のこなしでひらりとかわした次の瞬間、男の首に素早く手刀を叩き付け、続けざまに顔面に思い切り膝を蹴り込んだ。男の顔から鼻血が飛び散り、アスファルトを汚した。
彼女に叩きのめされた工作員達が、口から泡を吹き無様に路上に転がる。この間、わずか数秒の出来事だった。
あっけに取られた優子は、何も言葉を発することができず、女性に対し礼も言えないまま、ただその場に立ちつくしていた。

「あなた、大丈夫?」
茶色に染めた髪を肩まで伸ばし、少しふくよかな顔をしたきれいな中年の主婦らしき人が、ニッコリと優子に微笑みかける。
彼女に声をかけられるも、茶色い買い物袋を傷口が痛む右腕で抱えたまま、優子はただ頷くことしかできなかった。
その時、優子は自分の視界に、光る何かを捉えた。
優子が地面に目を落とすと、そこに転がっていたものは、太陽の光を受け鮮やかに銀色に輝く、一羽の折り鶴であった。

つづく


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三日月 秋
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。