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「その「男らしさ」はどこからきたの?」展 作家インタビュー: 甲斐啓二郎

甲斐啓二郎×小林美香(本展覧会キュレーター)

■ 小林美香
□ 甲斐啓二郎


スポーツ写真家を志して専門学校に

■  写真家を志した経緯からお話しいただけますか?



□  大学で建築関係の学科を専攻し、卒業後は3年間会社勤めをしたんですが、元々スポーツが好きで、スポーツの写真を撮る仕事をしたいと思って会社を辞めて東京綜合写真専門学校の夜間部に入ったんです。



■  スポーツを撮りたいという意思はかなり明確だったのですね。東京綜合写真専門学校は作家志向が強い人たちが多いことで知られていますが、そこでスポーツ写真を専門に学ぼうと考えたのは意外にも感じます。

□  卒業生に水谷章人さんというスポーツ写真の第一人者がいたので選んだのですが、入学した後に、「あ、入るところ間違えたかな」と思いました(笑)。在学中から水谷さんのワークショップを受けたりして、どうしたらスポーツ写真の現場に入れるかと試行錯誤しました。サッカーや野球の場合は、雑誌や新聞などのメディアに帰属していないと現場に入れなかったんですが、ラグビーは2000年代当時は今ほど専門化されていなくて、申請すればアマチュアや実業団チームの撮影ができたんです。
撮影した写真でブックを作って営業をして、『Number』などのスポーツ雑誌で仕事をさせてもらえるようになりました。当時は、スポーツ雑誌、格闘技、サッカーの専門誌などで様々な仕事ができたのですが、雑誌の仕事をする中で次第に自分の作品を撮りたいと思うようになりました。



■ スポーツ写真というと、掲載するメディアが求める基準や表現の型が明確にありますよね。



□ ある程度やっていくと、求められる写真のパターンがわかってきて、仕事として撮るモチベーションが次第に下がってきたんです。専門学校で「写真作家」という人種がいるということを初めて知り、大西みつぐさん、渡辺兼人さんのゼミで教わり、金村修さんや田村彰英さんなどの先生から合評で指導を受けました。卒業後に仕事の経験を積んだことで、学校で教わったこと、先生から言われたことの意味が分かってきたんですよね。それで、スポーツを題材に自分の作品を作って作家活動をしたいと思い始めて、2012年にイギリスでフットボールの起源にあたるお祭り「シュローヴタイド・フットボール」(Shrovetide Football, イングランド北部の町アッシュボーンで1年に1度、告解の火曜日と灰の水曜日の2日間で開催される)を撮りに行ったことがスポーツの原風景や歴史を掘り下げて、作家として活動する分岐点になりました。


フィールドの外から群衆の中へ

■ クライアントワークとしての写真に取り組むことと、作品制作に取り組むことでは意識として大きく異なりますよね。



□ 僕は元々、スポーツをする人の顔や体の一部をクローズアップで捉えるのが好きだったんです。そういう写真も営業用のブックに入れていて、そういう写真が仕事上で求められることはあまりなかったんですが、それでも時々使ってもらっていました。通常スポーツの撮影では400ミリの望遠レンズを使うのですが、僕は600ミリのレンズを使ってより選手に肉薄して撮っていました。できるものならば、フィールドの中に入って撮りたいぐらいの気持ちがあったんですが、試合中はそんなことはできません。イギリスでお祭りを撮った時には、自然に祭りの群衆の中に入って昼から夜まで場所を変えて撮ることができたんです。外国だったので、言葉が分からないしその場で僕だけがただ一人の東洋人だったので目立ってはいたと思うのですが、写真を撮ること自体は遮られなかったんですよね。

■ 通常のスポーツだと競技が行われる場所、時間、ルールが設定されていて、観戦する側としては競技のエリアの外からしか見たり撮ったりすることしかできませんから、群衆の中に部外者として入って、それもどのようなルールで行われているのか分からない、どう展開するかも分からない状態で撮るこことはずいぶん勝手が違いますよね。



□ そうですね、その祭りは昼から夜にかけて、2日間場所を移動しながら開催されていたので、その中で周りの様子を見ながら撮影することができました。夢中になって撮るうちに、祭りの中にスポーツの要素があることに気づき、翌年も同じ場所に行って撮影して写真集『Shrove Tuesday』(2013)として発表することができました。


「Shrove Tuesday」(2012) より ©︎ 甲斐啓二郎
「Shrove Tuesday」(2013) より ©︎ 甲斐啓二郎

■ この撮影を契機にさまざまな祭りを撮影するようになったのですね。

□ スポーツを超えて、祭りという人々が古代から行ってきた営みの中に、生の根源を捉えられるんじゃないかと思うようになったんです。祭りを調査していく中で南米で行われている祭りTinkuのことを知り、ペルー在住の写真家に案内してもらって、ボリビアの中央部マチャの町で開催されるケンカ祭りを撮りに行ったりもしました。
その後、東欧のジョージアのフットボールの祭りLelo秋田県美郷町で行われる「六郷のカマクラ・竹打ち」などさまざまな土地で行われている格闘的な祭りを撮影して、展覧会を開催し、写真集『骨の髄』(2020)として出版しました。

「骨の髄」(2015)より ©︎ 甲斐啓二郎
「Charanga」(2019)より ©︎ 甲斐啓二郎
「Opens and Stands Up」(2017)より @甲斐啓二郎

■ 格闘的な祭りでは、参加している人たちやグループ間での対立があって、勝負が目的になっていることが伺われるのですが、写真に捉えられた状況は混沌としていて、実際にどういう目的があって行われているのか分からないですね。

□ 祭り自体には宝木のようなご利益のあるものを手に入れる、という目的があるのですが、それを手に入れたところで実際にご利益があるかというと分からないですよね。祭りに参加する時点で、目的があってないようなものなんですよね。祭りの不思議なところは、それを取ったところでどうなるものでもないものを手に入れようとして、側で見ていてどうかしてると思わせるほどに一生懸命になって取り組んでいることなんですね。そこに宗教が関わってくるわけですが。そういった格闘的な祭りを撮り続ける中で、裸祭りも撮るようになったんです。裸祭りで撮った写真を並べてみたら、なんだか気持ち悪いな、って思ったんです。

裸祭りを撮る視点と触感

■ その「気持ち悪い」というのは、撮影時の感情ですか、それとも撮った写真を見た時の感情ですか?

□ どちらかというと、撮った写真を見た時の感情ですね。撮って写った対象に対してもそうですし、撮っている自分に対しても、「一体何をやっているんだろう?」という気持ちになりました。写真の画面全体が肌の色で埋め尽くされているのを見て、撮っている時のことや人の身体にぶつかる触感を思い出すんですよね。三重県のお祭り(ざるやぶり神事)では、自分も褌を締めて撮影に臨むので、人の身体に触れるとビクッとするんです。でも、時間が経って祭りも佳境に入ってくると自分の方から周りの人にぶつかっていくみたいなことになります。写真撮影の場合は、シャッターを切ったらその場から離れることもできるのですが、動画撮影の最中は基本的には対象との距離を保ちながら動きます。動画の中に自分の手が写っていることもあって、他人の身体との接触を気持ち悪いと思いながら、自分の方から触りにいっていることに気づいて驚くこともありました。動画はハイスピード撮影しているので、太ももやお腹の肉づきや動作がプルプルしているのが見えたりして、これは動画ならではの写り方だと面白く感じることもあります。

■ 甲斐さんはご自身をヘテロセクシュアル(異性愛者)と認識しているとのことですが、性的な接触を期待してゲイ男性が裸祭りに参加することもあると聞きます。以前、知人のゲイ男性に甲斐さんの写真集『綺羅の晴れ着』(2023)を見せたことがあるのですが、「この写真からは、祭りの中で好みの男を探している目線を感じない」という感想が返ってきました。
そういった人の身体に対する関心の違いは写真や映像での写り方にも反映されますね。裸祭りの撮影を重ねる中で、見方や感じ方が変化したということはありますか?

□ 裸祭りの撮影をするまでは、祭りにゲイ男性の方が多く参加していることを知らなかったですし、僕の場合は格闘的な祭りを追い求めて行ったら裸祭りに行き当たったという感じです。裸祭りに対する見方の変化というところで言うと、肌感覚というところでは、接触することに対する気持ち悪さを感じることもあるのですが、良いのか悪いのかは分かりませんが、対象を狙って撮るようになり、対象をエロく表現できないだろうか、と考えるようにもなりました。身体をクローズアップをして撮るとエロく感じるので、自分が接触して気持ち悪いと感じる感覚とエロティックに感じることは表裏一体の関係にあるのかもしれません。

「綺羅の晴れ着」(2020)より ©︎甲斐啓二郎「綺羅の晴れ着」(2020)より ©︎甲斐啓二郎
「綺羅の晴れ着」(2020)より ©︎甲斐啓二郎
「綺羅の晴れ着」(2020)より ©︎甲斐啓二郎

■ ご高齢の男性が写っている写真を見ると、この地域で生まれ育って若い頃からずっと裸祭りに参加してきていて、肉体の渦の中に身を置くことで生きている実感を確認しているのではないかと思わせるほどの高揚感と恍惚感が表情に表れているように感じます。また、そういった表情を見ていると、このような強い感覚を味わえる経験はほかにはないのだろうな、とも思わされます。

□ そういう感覚を体験できるからこそ、地域の人々にとって祭りが必要な儀式になっているんです。

■ 翻って現代のスポーツのことを考えてみると、時間や空間の枠やルールが設定されることで、スポーツ選手は身体的な能力を発揮して勝利や優れた成績を収め、そのことが社会的な評価や経済的な成功に結びつくわけですけれども、スポーツの起源に位置づけられる格闘的な祭りの中には、身体の感覚に強く働きかける経験はあるものの、スポーツに対して与えられる社会的な評価は伴わないわけですよね。

□ そうですね、祭りに参加して怪我をしたり、痛みや困難を知ったりすることで、自分の生のありようを実感する、そういうことに尽きるんですよね。

■ 私が「六郷のカマクラ・竹打ち」を捉えた「骨の髄」の作品を見て思うのは、祭りの中での人々の興奮状態と、それに伴って発生する暴力的な行為は、素手での取っ組み合いや殴り合い、竹槍で突くぐらいで留めておいてほしいな、ということですね。実際の現場では、怪我をしたりさまざまあると思いますが。

□ 僕が見てきた中で、「六郷のカマクラ・竹打ち」は、闘争的な祭りの中でもまだ穏当な方でしたね。穏当とはいえ、竹槍で突く人たちに囲まれてしまうと逃げようがなくなって怖い体験をしたことはありますが。ボリビアのケンカ祭りでは、本当に相手を殺す気で闘っているというか、実際に死人が出ることもありますし、手がつけられなくなると警察が催涙弾を投げることもあります。

円谷順一のスクラップブックより 

■ 先ほど、「身体をクローズアップをして撮るとエロく感じる」と言っておられましたが、この感覚についてもう少しお話ししてもらえますか。今回の展覧会で、私が構成した資料展示の中に、褌を締めたお尻の部分をクローズアップで捉えた写真があったり、写真家の円谷順一のスクラップブックで、スポーツ選手の肩や腕のような身体のパーツを切り抜いたものがあり、甲斐さんの写真の感覚に通じるものがあります。そういったクローズアップで捉えられた写真を見ていると、イメージとしての面白さは感じるものの、実際に男性の身体をそこまで間近に見たいとはあまり思わないんですよね。他者の身体の切り取り方、認知の仕方としてクローズアップする手法は、興味深いと思っています。

□ クローズアップでスポーツ選手の身体を撮っていた時もそうでしたが、撮影する対象の身体に対してエロいと感じる感覚の中には、ガッチリとした逞しい身体に対する憧れのような感情も含まれているのかもしれません。自分がどちらかというと華奢で細身の体つきなので、ないものねだりというか羨望の感情もありますね。

■ 甲斐さんの作品の場合は、身体に対して距離を置いて眼差しを向けて感じ取るエロさ、というのではなく、男性の集団の真っ只中に身を置いて怖さとと共に、自分も含む状態として感じ取っているエロさ、ということでもありますね。部外者として覗き見ているというよりも、自分自身もその一部になっているというか。

□ そうですね、それは動画の中に自分自身の手が映り込んでいるということにも表れていると思います。中に入っているからこそ写せることがありますし、写真を撮っているときも、ファインダー越しに見て撮っているだけではなく、ノーファインダーで自分には見えていない状態も撮れていることがあるので、写真の偶然性を大事にしたい、身体が撮ったというふうに見える撮影スタイルを今後も続けていきたいです。紛れもなく自分が撮っているのですが、自分の意思を超えたところで、写真で撮れて写るものを見たい、と思っています。 

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