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「その「男らしさ」はどこからきたの?」展 作家インタビュー: 高田冬彦

高田冬彦×小林美香(本展覧会キュレーター)

■ 小林美香
□ 高田冬彦


「一人見世物小屋」としての制作活動

■ 美術に関心を持ったのはいつ頃ですか?

□ 親が割と美術が好きだったので、子どもの頃から関心はありました。子どもの時から植物を育てるのが好きだったので、生物学にも関心はあったんですけども結局美術の方に進みました。

■ 大学では写真を専攻されていたと伺いました。


□ あまりデッサンが得意ではなかったので、パフォーマンスや映像作品で作ったファイルを提出して受験したんです。大学ではオーソドックスな写真の勉強をひと通りやったのですが、在学中も自室で映像作品を作っていました。


■ 大学時代から始められた作品で、拾った石を用いたパフォーマンス「偉い石プロジェクト」(2007-)がありますね。この作品もそうですが、高田さんの作品は、筋書きを設定するものの、状況や自分自身の身体、関わる周りの人たちがコントロールできないために起きるさまざまなことが捉えられていて、そのことが面白いと感じます。制作活動を始めたころから、自分自身のことを捉えてこられましたか?



□ 初期の映像作品には、僕自身が登場し、アパートの一室でパフォーマンスを行います。基本的にはモニタに映る自分を見ながら、ある意味自撮りとして作品を作っていて、「一人見世物小屋」みたいなところがあります。鏡に映る自分を見続ける中で、自己愛や自虐といった欲望が過剰になっていき、モンスターのような存在になっていくと言いますか...。

■ 確かに、「LEAVE BRITNEY ALONE!」 (2009)や「JAPAN ERECTION」(2010)では、欲望が暴走して歯止めが効かなくなっていく過程が作品になっています。伝説やお伽話、ポップカルチャーなどさまざまな素材をモチーフにしていますが、作品の着想はどのように得ているのでしょうか?

□ ここ数年は民話や神話、奇想的な小説などに興味があり、よく本を読みます。そして、毎日ノートにアイデアを書き留める中で、繰り返し登場するモチーフを取り上げるようにしています。またそれとは別に、面白い体の動きを思いついたらビデオカメラで撮ってみたりしますね。


■ 徐々に高田さん自身が登場する作品だけではなくて、他の人を登場させて高田さんが監督として指示をする作品が増えていきますね。
□ 「LOVE EXERCISE」(2013)という作品は、男女のモデルに登場してもらって、私がキューピットとしてモデルに指示を与えながら撮影した作品です。他の人が作品に登場することでコントロールできない部分が生まれていて、我ながら面白い作品だと思っています。この作品を通して、人と人との身体的な関わり合いというテーマを掘り下げられることに気づきました。



■ モデルの方達も指示を与える高田さんも、事態がどう展開するのかわからない状態があらわになっていますね。この「先の展開がわからない」という状況に、作品を観る側も巻き込まれていくことは「Cut Suits」にも通じる要素ですね。そういう状況を作り出したいという欲求が、制作の動機にあると感じます。

男性の身体イメージや身体の感覚について語ること

□ 最近の作品では、人に出演してもらうという形になるものが中心になっています。その傾向は、大学院を修了した後の作品、「Love Phantom」(2017)ぐらいから顕著になってきました。活動を続けるうちに、ダンスや演劇の仕事をしている友達も増えてきたので、そうした交友関係も作品に影響してくるようになりました。

■ 「Love Phantom」では、高校生ぐらいの男性二人が電車の座席で微睡んでいるうちに、胸の部分から膨らみが突き出て、お互いに触れて戯れ合うという場面が描かれています。身体の反応や動作が相互に意志のある関係として他者の目から捉えられていて、夢とも現ともつかない場面のように感じられます。この作品を見た後には電車内の光景が少し違って見えそうです。

□ ちょっとした思いつきで作った小品ですが、シンプルで気に入っています。夢やまどろみというテーマは、この後の作品でも何度も出てくることになります。

■ 個人的にとても好きなのが「新しい性器のためのエクササイズ」(2019)という3つの短い映像を組み合わせた作品です。映像の一つに、二人の男性がCalvin Kleinのロゴがついた一枚のパンツを奪い合うように、脚を入れて履こうとする動作が捉えられています。見ていてこの人たちは一体何を、何のためにしているのかわからないし、そもそもある動作を目にしてその目的を問うとはどういうことなんだろう、とも考えました。

□ この作品を作ったのは男性性をテーマにして作品を作ろうと模索していた時期で、パンツのように身につけるものやスポーツ用品を取り上げて少し変形させる、ということを試みました。藤田一樹くんというダンサーの友人がいて、男性の身体についてよく話題にしていたのですが、彼にコラボレーターとして関わってもらって作りました。こうした、目的のない身体の動きの追求はその後、「Cut Suits」にも反映されていきます。



■ 「Dangling Training」(2021)は、白いショートパンツを履いてテニスをする男性の首から下をとらえた映像で、股間の部分にピンク色の照明が仕込まれていて、動くたびにペニスが揺れるのが見て取れます。私はこの作品を「Cut Suits」が公開された展覧会「Cut Pieces」(WAITINGROOM, 2023)で見たのですが、ギャラリーの中でペニスを持たない者として一人でこの作品を鑑賞するのと、周囲に男性がいる状態で鑑賞するのとでは、見る時の感じ方や場の雰囲気は異なるだろうなと思いました。
私は勃起や射精のような現象であったり、ペニスに不意にものがぶつかって激痛が走ったり、布と擦れたりする感覚を知り得ないのですが、「なるほどね、こんなふうに伝えることができるんだ」と感心しました。男性が性器に関わる経験を茶化して揶揄ったり、笑いのネタにすることは多いですが、そういう表現ではないですよね。

□ 「Dangling Training」を見た男性のお客さんが、運動部で動きすぎて、ペニスと布が擦れて痛かった経験を話してくれたりするなど、色々な体験談が寄せられました。確かに男性って、自分の身体について語るときにどうしても茶化すとか、お笑いっぽい態度をとってしまいますね。というか、そうした態度をとるべきという暗黙の圧力のようなものがあります。
美術作家として身体に関わる作品を制作してきて感じるのは、女性の身体や身体イメージについて表現する女性の作家はたくさんいるのに、男性の身体イメージや感覚について語る男性作家はかなり少ないということです。男性が自分自身の体について語る場合、どういう作品が作れるんだろう、と思います。お笑い的な方向や、アスリート的な美しい身体の方向以外で何が作れるだろうかと。



■ 今回の展覧会で高田さんと同じ空間で展示する甲斐啓二郎さんは、スポーツの起源を辿る中で、格闘的な祭りや裸祭りを撮影するようになりました。甲斐さんのお話を伺っていると、ご自身が細身で華奢な体つきをしていることもあって、がっしりとしたアスリートの身体を憧れの気持ちを抱きながら見つめてきたこと、男性を性的な対象として捉えていなくても、肉薄してクローズアップで捉えたり、裸祭りの群衆に巻き込まれながら自分が見ていないものも写真に捉えたい、と身体を見ることの欲望について語っていたのが印象に残っています。

「Cut Suits」と、男らしさの装いと振る舞い

■ 「Cut Suits」はどんな経緯で制作されたのでしょうか。これまでの作品の中でもかなり大がかりですから、構想や準備に時間をかけられたのではないですか?

□ 確かに、これまでの作品とは作り方を変えています。まず、助成金を得て、予算をかけることができたのが大きいです。アイデアが出た時点で、この作品は面白いものになるという確信があったので、比較的リラックスして取り組めたと思います。今までは自分で撮影していたのですが、今回はカメラマンに任せて監督として指示を出す立場に専念しました。そして、イメージやコンセプトは伝えつつ、ある程度はカメラマンや演者に任せて、成り行きを楽しむようなスタンスで作っています。経験を重ねてきたことで、人に委ねる余裕が出てきたところもあるかもしれません。



■ 6人のスーツ姿の男性が登場しますが、どのように選ばれたのですか?

□ 友達や人の紹介もありますが、役者を探すサイトがあって、そこで募集もかけました。

■ この作品を展覧会「Cut Pieces」(WAITINGROOM, 2023)で見たのは、私が『ジェンダー目線の広告観察』を出版した時期に重なります。私はメディアの中の女性の表象に関心を持ってマタニティ・フォトや脱毛広告について調査してきたのですが、広告について調べる中で自分自身が男性の表象にさほど興味を持ってこなかったことに気づき、興味を持てなかった理由についても考えるようになったんです。身の回りにいる人や友人などの男性についていえば、スーツを着て仕事をしている人がほとんどいないんです。コロナ禍でリモートワーク推奨の世の中になって、スーツ姿の男性を見る機会がさらに減っていく中で、スーツを着たサラリーマンって実際どれほどいるのだろうと思い、広告の中に描かれているスーツ姿の「デキる男(社会的な成功者としての男性像)」を注視するようになりました。そんな時期に、「Cut Suits」に巡り会ったので、自分の関心とこの作品はどこかで繋がっていると直感したんです。

□ 確かに、スーツというもの自体が減っているように感じますよね。僕自身もスーツを持ってないです。この作品は、若い男性の出演するスーツのCMのような雰囲気にしたいと考えていたのですが、廃れゆくあるスーツ文化の墓場としても読めるのかもしれませんね。
服を切るというアイデアは、オノヨーコのパフォーマンス「Cut Piece」(1964)に影響を受けました。「Cut Piece」はすごく好きな作品なので、衣服を切っていくというイメージを、現代の作家が現代らしく作り替えるとしたらどういうアイデアになるだろうと、以前から考えていたのです。また、会田誠のスーツを着た男性たちが死屍累々と積み重なっている情景を描いた絵画 「灰色の山」(2009-2011)からも着想を得て、切り刻んだスーツをスクリーンの前に山のように積んでいるんです。これらの作品から着想を得つつ、もっとポジティブなものとして描きたいという気持ちがありました。

■ どうしてピンク色の空間にしたのでしょうか?

□ 快楽や甘さを視覚的に強調したかったのだと思います。チャイコフスキーのバレエ音楽が流れているのも同じ理由です。男性のスーツが切り刻まれていると、まず「男性性の批判」といった真面目なテーマが想起されると思うし、それはそれで大切なのですが、同時に、見る人の官能を刺激するような、エロティックで楽しい気分も、この作品の大切な要素なのです。スーツを切るハサミの動きも、ドローイングを描く筆のように見せたかった。そして、スーツがバラバラに弾けて、男たちが新しく生まれ変わっていくような、ポジティブな雰囲気を出したかったのです。

■ 映像を見ていると、6人の男性がそれぞれに互いのスーツを切りながら、指示に従いつつ、動作や表情としてその場で反応しているのがわかります。男性たちは日常的にはスーツを着ているわけではなくて、「スーツ姿のサラリーマン」を演じているわけですよね。撮影の後に出演者からはどのような感想がありましたか?

□ 撮影中には、キスする時みたいに優しく鋏を動かしてくださいと指示を出していました。演者の方は、撮影の過程やコンセプトも含めて結構楽しんでくれていたようです。

■ 私が男性の装いの中でも「スーツ姿」に関心を強く持つのは、その装いが男性の様相を強く規定する力があるからなんですね。スーツ姿の男性を見ていると、その人個人に対峙しているというよりも、「スーツ」に接しているような気持ちになります。私は、制服やユニフォームを着た男性たちの集団に対して、一種の集合体恐怖症というのか、恐怖感があって、ユニフォームを着たチームスポーツの選手たちがわーっと集まって盛り上がっているような状況に対しても、とても苦手に感じます。もちろん、そういうスポーツに熱狂してチームの中に加わりたいと思う人や、応援する人がたくさんいることもわかっているのですが。高田さんは集団としての男性にはどう感じていますか?

□ 自分は小学校から高校の頃まで集団の中に入れなかった方なので、基本的に男性の集団に対して強い苦手意識があります。むしろ、その中では絶対に生きていけない、いたら鬱病になってしまうと思い、比較的自由な美術の道を選んだのです。個人的に話すと結構優しい男性の友人が、集団の中に入ると急に雰囲気が変わってしまったりすると、悲しくなります。でも同時に、そうした男性の集団の雰囲気にアンビバレントな憧れや魅力も感じており、だからこそスーツやスポーツウェアをモチーフに作品を作ったりもするわけです。

矢頭保「裸祭り」(1969)より
稲嶺啓一(東風終)「一瞬の肖像」(1996)より

■ 私の場合は、写真のように表象として描かれた集団に対しては見ていられるというのはあるんです。今回資料で展示した矢頭保の「裸祭り」の群衆なんかもそうですね。男性の集団でいる現場を見たいとは思わなくて、実際に現場にいたら恐怖感や疎外感を抱くと思います。けれども、表象を通してであれば、その様子を愛でられる、面白く感じられるという感覚もあります。広告やメディアの中でも、女性と比較すると、男性は集団として描かれることが多くて、集団行動を前提とした上で、その中でどう抜きん出るのか、優位に立つのか、ということが常に重視されますよね。同じく資料展示で見せている稲嶺啓一(東風終)がアスリートの人たちを撮った『瞬間の肖像』でも集団としての男性たちが捉えられています。集団の表象が発揮する力に惹かれつつ、怖いと感じる、これもアンビバレントな感情ですね。

□ こうした、集団の男性が同じポーズをとって雄叫びをあげているようなイメージを見ると、子供の頃の体育の授業のトラウマが喚起されます。自分は全く体育、特に球技ができない子どもだったんです。中学高校で運動ができない、っていうことは、とくに男性にとっては結構クラスの中での序列に響くんです。
でも小林さんのいうように、一度写真にして表象にすることで、ツッコミを入れつつも愛でることができるようになるという感覚はわかります。安全ですよね。

■ 私は中学・高校時代を女子校で過ごし、その後大学に入って男性が多数を占める空間に身を置くようになってカルチャーショックというか、違う惑星に来たかのように吃驚した記憶があります。その頃から社会の中で男性の集団としての言動、振る舞いに接してきて感じてきたことや、私が彼らをどのように見てきたのかということを伝えたいという気持ちが「その「男らしさ」はどこからきたの?」という問いかけにつながっていったのかもしれません。現在、自分と同世代の男性を見渡していて、ジェンダーの問題に関心を寄せて、自分ごととして考えている人はとても少ないと感じます。それでもどうやってジェンダーに関わる問題意識を伝えるのかということを考えた時に、高田さんの作品に巡り会ったという感じがします。

□ 確かに、普段からアートやジェンダーの問題に深く関心を寄せていない人にも、作品を通して興味を持ってもらえると嬉しいですね。


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