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火曜日しばらく雑記帳・10:物理数学・工業数学
「微分、積分、いい気分」と節つけて口ずさみながら(*1)勉強すれば、数学の苦手意識もなくなるだろう、と森毅がどこかに書いていたと思う。
多くの人が数学アレルギーを持っていると思うし、世の中のほぼ100%の人が数学のどこかで躓いてそのままにしているはずだ。九九や割り算、分数・小数、文章題、方程式 x, y, z の出現や、数列、三角関数、複素数、べき乗、微分・積分、といったカリキュラムのどこかで躓いて「数学は苦手、わからん。だけど、あんなものは金儲けには役に立たない」と息巻き、そして敵意すら抱いている人もいるかもしれない。
金儲けに役に立つかどうかについて詳細論じると長くなるので放っておくが(*2)、本業の数学者だって物理学者でも技術者でも、専門以外の数学の分野では、どこかで躓いて放っておいてある「わからなかったこと」があるだろうことは想像にかたくない。
専門家だって(アインシュタインだってディラックだって)、一生のうちに全部を理解できていないはずだ。凡人の私たちがどこかで躓いてわからないところがあるからといっても決して悲観することはない。
え?でも理系の人なら計算は得意、数学はスラスラ使いこなせるのではないの?と思う人もいるかもしれない。いや、そうでもない。私たちのようなメーカーの技術者の場合、日常の業務はほとんどは四則演算で事足りるし、ま、そうはいっても対数や三角関数はよく使うかも、実際に計算を手ですることはほとんどない(*3)し、面倒な微分方程式を自らたててウンウンうなって解く必要はほとんどない。
数式だって自分が使いたいところだけ、美味しいところだけ利用すればいいので、厳密な証明や数式のめんどくさい展開と一般化、背後にある公理や定理、といったようなことは数学者に任せておけばよい。早く答えが欲しい。かといって後戻りはしたくない。
今晩の食事をどうするか焦っているのに、そんな時間はないのだ。
実際、必要に応じて教科書を見て「ふふん、なるほどそうだねそうだよね、そういえばそうだったかな、ま、細かいことは気にしない」で十分ではある。つまり、どこにあたれば自分に必要なツールが手にはいるか知っていれば用は足りる。だから「工業数学」とか「物理数学」などという教科書がある。
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私の場合、職業上、こういった種々のハンドブックはやはり手元に必要だ。
全部が頭に入っているわけではない。
我々のような一般人でも、数学を知り親しむといろいろいいことがあると思う。職種によっては給料アップにつながるだろうし、知的な話題で好感度UP、たよりになるわぁ、と、ジョブ・セキュリティや人脈を広げる点でもいいと思う。
そして、そんな功利的な側面だけでなく、新しい知を獲得したい、知をもっと深く掘り下げたい、ひらめきの瞬間や、ようやく難しい問題が解けたときの、そんな楽しさを味わいたい、など、喜びも増えるはずだし、暇つぶしにもいい。
世界はよりわかりやすくなるし、わからないことに不安になることもない、似非科学に惑わされることも少なくなる、心の平安を得やすくなることは間違いないと思う。きっと、あなたの生活の潤いと彩りを増してくれることだろう。
数式を自在に操作することができなくても、新しい数学理論や原理を発見できなくても、数式の意味するところがわかればだいぶん違う。
意味するところがわかるには、記号の意味がわかることが大事だ。つまり登場人物を覚えることと、役割を覚えることだ。
習うより慣れよ。時間はかかるだろう。しかし、10年たってから振り返ってみれば、その10年なんて一瞬なのだ。
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楽しめれば大丈夫。微分、積分、いい気分♬
■ だいぶん前に書いたと思うけれども、カリーはスパイスから自分で作る。といってもスパイスの栽培からしているわけではない。要は市販のルーを使わずに自分でスパイスを挽いて調合して作るということだ。
とはいえ、カツカレーみたいなものの場合、あるいはカレースパゲティといった日本の喫茶店の味を心置きなく堪能したい場合は、レトルトのカレーに限る。出汁でといて葛でとろみをつけるカレーうどんやカレー蕎麦、揚げたてが美味しいカレーパンなど、変に本格的でないほうが美味いものだ。
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トンカツは分厚い豚のロース肉を購入したので、そジャンっと揚げ、いつもながら、口笛ふきたくなる惚れ惚れする絶妙の火の通り具合、やっぱり幸せはトンカツ。
本文の繰り返しになるが、こういうカレーはレトルトに限る。ハウス咖喱屋カレーの大辛。
■ 最近、ずいぶん昔に聴いた音楽を掘り起こしたので、それを2点。
1.スナリー・ラチャシーマ。大学のころにいくらか聴いたタイの歌謡曲のなかで一番印象的だった。「スンナリ・ラチシーマー」という発音で憶えていたが、今に至るまで忘れずにいた。
最近、note に好きな音楽のことを書いていると、ふと、そんな昔によく聴いた人や音楽を思い出し、本棚からLPやCD、あるいはカセットテープなどを引っ張り出してきては眺めたり、検索したりするときもある。
懐メロよりも今のコンテンポラリを聴きたい、というポリシーもあるものの、Spotifyなど、現代のデジタル・プラットフォームで、そんな昔の曲やミュージシャンを見つけるとやはり嬉しいし、浸って聴く時間も悪くはない。
その国の文字や言葉を知らないので検索できなかったり、発音を間違って覚えていたり、英語表記に問題があったり、そもそも出身国を間違って覚えている、あるいは、Alice (アリーチェ)のように、関係ないミュージシャンばかり引っかかってくるような名前だったり、時間をかけても見つからない場合もあるが、ひょんなきっかけで見つけたりすると、なかなか嬉しいものだ。
タイ語がさっぱりわからないので、どの曲がどの曲だかさっぱりなわけだが、流して聴いていると、「おお、この曲は何度も聴いたな!」という懐かしい楽曲がオンパレードだ。憶えているものだ。
スローで郷愁を感じさせるような曲ばかりだが、そこが彼女の声によく合っていると思う。音域が広く、深みを感じる声で、ビブラートを効かせて、ゆったりとした曲を情感たっぷりに歌い上げる。
雨がしっとりと降る蒸し暑い休日のレイジーな午後、もの想いにふけってしまいやるべきことに手が付かない、そんなときに聴くとしみる。
2.クルド族の吟遊詩人 "Temo" の LP を引っ張り出してみた。クルド族は、トルコ、シリア、イラク、アルメニアの国境付近に住む民族だが、自分たちの国を持つことができず、それぞれの国に分断され、苦難の歴史を強いられている。
世界史の窓:クルド人/クルディスタン (y-history.net)
パーカッションをバックにタンブールをかき鳴らすシンプルで情熱的な歌が胸に迫るものがある。
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私が語れることは少ないが、ネットで検索してみたら、次のサイトが詳しかった。参考まで。
■ 数学は、理論物理を始めとして、自然科学、工学を表す言葉であって、理性の究極純粋な形ともいえる。もし、数学の世界が実在するのであれば、私たちは、私たちの主観による幻想ではなく、客観的に実在するものと言えるのではないだろうか。
高橋昌一郎の「ゲーデルの哲学」にこういう一節がある。ギブス講演と未発表の論文で、繰り返しゲーデルが主張したのは、「数学的対象が、人間存在から独立した実在であり、その意味で、物理的対象と同等にみなされるという存在論である」(p.174)
ゲーデルにとって数学の真理性は、確定された実在の客観性によって保証されるものであって、人間の言語構造や心理現象に基づくものではない。
(中略)
数学的対象が実在するか否かの問題については、現在も議論が続いている。(中略)現代集合論の第一人者であるイリノイ大学の竹内外史氏に尋ねたところ、「ゲーデルの数学的実在論に賛成です」と明言された。これが、多くの数学者を代表する見解だと思われる。
ゲーデルも、現代の数学者の多くも、「どのようにあるのか」自ら証明することはできず、「どうあるべきか」信念で支えている部分もあるのだ。興味惹かれるではないか。
VALIS - 数千年来、この世界に人間を通じて異世界から侵入を試みる理性と言葉、それは生きていて、遺伝子に組み込まれ、脈々と人間を通じて侵略してきた。それは世界に意味をもたらし、矛盾を生み、そして、さまざまな形で実体化してきた。
私たちはどこから来てどこへ行くのだろうか。
■ 注記
(*1) 最近の CM 知らないので、ひょっとしたら何のことだかわからない人がいるかも、と思ったりする。
検索してぱっと目についたのを貼っておこう。
[YouTube] '78-94 セブン-イレブンCM集 with makotosuzuki
https://youtu.be/RPN5jttgq1g
(*2) では、数学や理論物理がわかると何か役に立つのだろうか。私が最近気に入っているのが、次のパンチ・ラインだ。
「心の平安が得られます。」
(*3) 昔の人は筆算だったのだろうか。父の机の引き出しには計算尺があった。父の現役の時代でも、コンピュータといえば大型コンピュータ、なかなか利用することができず、何百枚ものパンチカードで組んだプログラムを計算させたら、計算結果を出すまで一か月かかり、でてきた結果がおかしいと思ってチェックしたら一発打ち間違いがあり、すべてオジャンということもあったらしい。
関数電卓やポケットコンピュータという時代もあった。
今なら、手元で Mathematica や MATLAB/Simulink、Python などで、計算なんてすぐできるし、数値計算だけでなく、数式の展開や方程式の解を求めることなんかも出来てしまう。
そして、多くの人は Excelで用が足りているはずである。