vol.030「ファッションの学校に、サポートで参加して考えたこと④価値の高い"教室"は一言で説明できない。」
政近準子さんの「MFJ(マインドファッションジャパン)」に、ひょんなことからサポーターとして参加させて頂いている。中級編に相当する「アドバンスコース」全4回がすべて終了。毎回、ものすごく考えさせられる、というのか、脳に負荷のかかる授業で、ウォーミングアップ、クールダウン、とにかくエネルギーを使った。
※この点は私の思い込みではなくほかの受講生の方々も同様のことを再三述べている。言い方は変だけど、大の大人が、仕事でもないのに真剣に取り組んでいる。自分の自由意志で参加してるのに ひいふう言いながら課題と格闘している。不思議といえば不思議だけど、「自分の人生をこのまま過ごすことのリスク」「インプット・環境を強制的に変えることの価値」を、直観的に理解してるからだ、と考えています。
授業の翌日にメモで書き出してみる。または、学校のSNSグループ内で受講生どうしでもコメントを交換する。メモ集からカリキュラムの詳細に触れる部分を取り除いて、またはコメントのうち私の発言部分を抜き出して、整理したものをシェアしてみます。
1.「位置エネルギーの高い場所」で起きていること
◆価値の高い"教室"は一言で説明できない
価値の高いセミナーや研修の、共通点のひとつに「それを知らない人に、一言で価値を説明できない」があると思っている。「どこがそんなに良いのか」「どんなメリットがあるのか」「何を得られるのか」を、その講座、その先生、そのジャンルを知らない人に、わかるように説明するのが難しいのだ。
もちろん、単に言語化のスキルレベルの問題の可能性はある。また、その逆=「良さを説明できないから価値ある場だ」は、かならずしも成立しない。
たとえば何度か紹介した朝倉千恵子さんの「営業力強化セミナー」では、「カバンを4秒以内にぜんぶ片づけて席に戻ってくる」プログラムがある。ある決まったフレーズ、決められた動作を4人1チームで行い、途中で視線が一瞬でも外れると失格→没収試合、というプログラムがある(参加費を払っていて、「没収試合」ってなに?)。
受けたことのない人、また懐疑的な態度の人に、それらを最高の真剣さでやる意義をわからせようとしても、とても難しい。相手の価値観や過去の成功体験によっては、ほとんど不可能と言っていい。
同じく、スピーチコンサルタント 矢野香さんの少人数セミナーでは、前に出て話し方の癖や要改善点を容赦なく指摘される。ほかの受講生も見てるから、「人前で恥をかかされる」状況だ。運がよければ(悪ければ?)公開動画や書籍の一節に登場、掲載される。受けている人間には価値があるとわかるが、言葉だけで聞くと「なにそれ?」「いやー、遠慮しとくわー」となるだろう。
MFJもその点では同じで、
「服装(≒おしゃれ)の知識を学ぶつもりが30秒プレゼン?」
「ファッションの学校と思ってたのに哲学に歴史に美術の授業?」
「教えてもらえると思いきや『あくまで問い』とはなにごと?」
と、「?」マークが頭のなかにいっぱい発生する。※そりゃ発生しますよ。だって普通じゃないもの。
けれどそれでも、そのスタンスのままでいると時間だけが空費されていく。授業料がムダになる。それはイヤだから、手を動かし、頭を悩ませ、ググり、本を読みかじり、宿題を準備して、授業当日を迎える。
授業を受けて、「ああ、これはとんでもなく意味のある時間だな」と感じるし、「これであの授業料は安い。お金払っても買えない内容だわ~」と思う。しかし、それを外の人、知らない人に説明するとなると難しい。
学校では授業の内容を外部に露出することを(当然ながら)禁じられているけど、たとえ禁じられていなくても難しいのだ。「どこから説明すればいいんだっけ」となる。
※「内容に対する1時間あたりの参加費(単価)」という尺度だけで計算した場合、これまで受けた様々な勉強のなかでもトップだと思う。また「お金を払っても~」とは、「自分でその"コンテンツ"を注文しようと思っても、具体的に指定ができない内容」の意。これも"価値の高い教室"の共通点。
◆自分の意思で参加してるのに行動しない現象
価値の高い"教室"の、もうひとつの共通点が「コスト(お金や時間)を払っておきながら、真剣に叱責・指摘される」だ。
逆にいえば、その価値観を受け入れると、強力に作用する。実際に超有益で有意義で、自学自習では得られない破壊力だから、ある種の依存構造が生じる。「課題の意図はこれだろうか」「正解は何だろう」「恥をかかずに良い感じの答えを出したい」「また指摘されちゃった(いわゆる、怒られた)→だからダメだ」、という事象が起きる。
一言でいうと、「他人に行動の判断基準を委ねている」。自分の人生のコントローラーを、他人(その先生)にあずけた状態におちいる。そうなると、打席数よりも打率を気にして、つまり"正解"を外すことをおそれて、行動=発信や実験や質問 をしなくなる。
つまり、「自分の意思で参加したはずなのに、行動しない」現象が起こる。
これは、ちょっと考えれば、おかしな話だと気づく。
コスト(お金や時間)は先払いしてるのだから、行動することではじめて元が取れる。もちろん元が取れない=不発に終わることもあるけど(それこそ打率10割ではないが)、行動しなければ可能性はゼロだ。
"価値の高い教室"の先生は例外なく、異常なほど親切だから、心配してくれる。好きこのんで参加してる場で、「行動してないことを心配される」は変で、「行動しすぎて注意される」がまっとうな姿だ。
禁止されてないことは試してみる、わからなかったら質問する、教室限定のSNSで提案する、自分のインターネット上のSNSで情報発信してみる、といったことだ。
◆質問する、要望することのハードル
これらのうち「わからなかったら質問する」の心理的ハードルは、あんがい高い。
価値の高い教室、もしくは開催期間の長い教室では、「提示された情報が一意に解釈できない」ことがまま起こる。学ぶ(成長する)カギの一つは「曖昧な指示をする=自分で考えさせる」なのだから当たり前だ。
並行して、生徒どうしの信頼関係がある程度醸成されるから、「今回の課題ってこういう理解で合ってる?」「これって情報が足りなくない?」「告知がいつもより遅いよね?」という会話が発生する。そのあとは、主催者側へ質問をする人と、しない人に分かれる。質問を、全体の掲示板で投稿する人、個別にメッセージで送る人に分かれる。
どちらが良い悪いではなくて、「質問はしていいものだ」と思う人と、「質問してはダメ(自分で考えろということだ)」「質問していいかどうかわからない」と思う人がいる、というだけだ。
前述の「行動しすぎて注意される」の原則でいくと、「質問は受け付けません」と明示してないかぎり、質問はしていい。というか、Feeを払う→サービスが提供される(等価交換の契約行為)→その場としてSNSを利用している(法令や良識の範囲で使い方自由)のだから、質問を投稿するのは完全に当人の自由だ。
ダメなら、「その質問には答えずにおきます、考えてみてという課題です」と、教えてくれるだけだ。
※心理的なハードルは、かなり個人差がある。私はそのハードルが低いほうで、数百人規模の研修で「はい!」と挙手したら自分だけだった(→当てられるのでもちろん得をした)、という経験が複数回ある(会社主催の研修でも、プライベート参加の研修でも)。
◆「無償だとモチベーションが保たれる」現象
ここ十数年ほど、外の世界で勉強してる。目的は
(1)自分の時給と働く時間を自分で好きに設定できる人間になること、
(2)それでいて現在の仕事に役立てられる、貢献できること(できれば希少性の面で)
だ。
最終的には「自分の値段を高くつけたい」けど、そのためには「結論が出るまでは安易に値段を決めない」が重要だと思っている。一度ついた(開示した)値札を書き換えるのは、コスト・摩擦エネルギーがかなりかかりそうだと仮説を持っているからだ。
なので、何かのお手伝いをしててFeeの打診をされたとき(お金払うよ、と言われたとき)、副業禁止云々もあるけど、「まだ値段を決めきれてないので、タダでいいです」とお答えしている。
この「無償で引き受ける」には強力なメリットがある。「モチベーションが高く保たれる現象」だ。たぶん、無償=0円→アウトプットを割り算する分母がないから、頑張れるのだと考えている。「いくら円もらってるからこのぐらいの働きだろう」「これは私の仕事ですか?」といったさじ加減や疑問が発生しない。無償のうちはうまく行ってて、本来プラス材料のはずの報酬を設定したらうまく行かなくなって破綻した、という事象は、そこかしこで時々起こってるのではと想像している。
ボランティア(volunteer、無償で自由意志で応募するが、結果成果を期待される)であることで、意欲が高く保たれて・勝手に創意工夫する・能動的に動く・改善や新しい企画を提案する、という経験は、これまでに何度か味わっている。
◆「場所」を移動すると「価値」が変わる現象
関連して、「場所を移動すると/移動するだけで、価値が上がる」現象がある。わかりやすい例では、大航海時代の胡椒をはじめとするスパイス。あるいはお茶。生産地では安く手に入るが、消費地へ移動させると価格が激変する。現代なら、あるスポーツのプロとしては大きな結果を出さなかったけど、他のスポーツに転身したら大活躍した例(野球→ゴルフ、武道→ショー格闘技)。サラリーマン会社員としては鳴かず飛ばずだった(まったく向いてなかった)けど、独立起業したら/Youtuberになったら大成功した例 などがそうだ。
転身や転職までいかなくても、「持っているスキルを、フィールドを変えたら重宝される」ということは簡単に起こる。たとえば仕事で培ったスキルを個人参加の学びの場で使う。守秘義務が当然あるから、専門性の部分ではなくて汎用スキルの部分。「声かけする/話を聴く/ファシリテートする/見える化する/モチベーション上げのお手伝い/フィードバックする/感想と事実をわける/公正だけど平等ではないetc.」といったことだ。
学びの場のさらにオプションの場、懇親会や遊び企画で、「事前のアナウンス/計画を立てる/お店候補選びと合意形成/会費の集金/プレゼン/結果報告」をするだけで、満足度が上がる。もちろんその人(幹事)の評価も上がる。
この手の現象はたいてい掛け算だから(増幅装置が作用するから)、場そのものの持つエネルギーが高い、参加者のモチベーションや考える習慣があるほど、評価なり感謝の量も増幅する。もちろん、"価値の高い教室"では高い確率で起こる。
そういうことを考えて、設計して言動するほうが、当然、得られるものも多くなる。「無垢・無邪気」は素晴らしいことだけど、設計したほうが収穫が増える。私はもちろん後者タイプだ。
2.いち参加者として得られるもの
◆「自由七科」的な小空間
ファッションの学校と思ってたのに哲学や精神面の講義を受ける。歴史や芸術のさわりを学ぶ。身体・健康の話が登場する。セールスパーソンの能力開発に参加したつもりが、食や酒の席での豆知識を教わる。詩の朗読がある。タイムトライアルがある。
いわゆるリベラルアーツ(自由七科)をちょっと連想してみたりする。
この「互いに関係がある(有益だ)と感じるけどうまく言えない感じ」は、前出の「価値の高さを一言で説明できない」に通じる。
◆意見表明しあうことに意義がある
人数限定で、参加者の顔と名前が見えているクローズドな場では、宿題提出やプレゼンタイムとは別に、発言すること、意見を言うことがとても重要だ。リスクを取って互いの意見を伝えあう。文字化することで「自分の考え」になる。自分の考えをコメントする。合ってるか間違っているかは最重要ではない。そもそも正誤問題ではない。結論(主張)を決めきることが大事。片方向で考えて意見を表明するのは、その人の訓練になるけど、相手は得るものがない。結論を決めたら、先攻で=様子見せずにシェアするほうが、収穫は大きくなる。
たとえば、笑顔や立ち方、背筋・手指の伸ばし方は、忘れるものだ。宿題提出用に写真を撮ったり、チームで行うデモ演技をスマホで録画して確認すると、愕然とする。または課題提出の投稿に対して、ほかの皆さんからのコメントで指摘される。過去にセミナーで、さんざん練習したのに、劣化するのだ。自分で先に気づくか、開示して指摘を受けて、気がつかされる。
◆成果を出したければリスクを取る以外にない
いまできないことを試す、開示して恥をかく、習慣(癖)を変える。学び型のフィールドで成果を出すには「意味のあるリスクを取る」以外にないと考えている。同じリスクを取るなら、開示したほうが何か起きる。そのための「心理的に安全な場」を探して参加しているのだ。そして、同じ開示するなら早いほど価値が上がる。他者の評価が高くなる。
◆「知らないこと」は、できない
私自身は「知らないことはできない」。つまり0から1を生む、「創造」ができない。かわりに、枠組みを理解すと真似ができる。模倣が苦にならない。プライドが邪魔しない(プライドに引っかかる領域ではない)。
全部を理解できるまえに、「模倣」をスタートできる。「模倣の練習」の心理ハードルが低い。この点は強みだと思っている。
◆まず、一通り出しきること
課題提出やディスカッションの場は、まずやり尽くして、出しきること。受講生どうしは、ある種の運命共同体という側面がある。誰かがリスクを取って前に出たら、まわりは傍観してないで助け船を出すこと。オンライン越しだろうと、SNSでのやり取りがメインだろうと、空気を感じて協業する。感覚を訓練する。別に第六感を鍛えるとかじゃないし、そんなに難しいことでもない。
◆なんのためにやってるか
セミナーの参加目的を仮に「自分の学びになる」「印象に残る」の2つだとする。後者は、特にオンライン開催では、①プレゼンタイム ②提出物、③質疑ほか振る舞い全般、しかない。「プレゼンタイム」で単純計算33%を占める。感覚的には50%ぐらいある。①が毎回1分しかないのなら、十分に練り込む。前の発表者とネタが重ならないよう、複数パターン用意する。時間に比べて努力対効果が非常に高い。
◆選ぶことは捨てること
一流の、というと偉そうに(安っぽく)聞こえるけど、とにかくイケてるセミナーや学校のプログラムは、「まともに取り組むと必ず時間が足りなくなる」ように設計されている。となると、「何を選ぶか(何を目的にするか)」がとても重要になる。「何かを選ぶ訓練」は、そのまま「選ばなかったものを捨てる訓練」だ。私たちは、自分で決める練習、リスクを取る練習をしている。
◆変われる人かどうか
教わることはたいてい、ふだん所属している世界では、ほとんどの人がやってないものだ。これを「俗世間、下界に戻るとその空気に染まる効果」と呼んでいる。「ごく少数の人の話でしょ」「生き方を変えよう、と言われてもね」と戸惑うし、くよくよ考えてしまうもの。やらない言い訳のほうが先に頭に浮かぶものだ。
これは、「多数派はどちらか?」「現在までの累積時間の長さはどちらか?」で景色を見てるために起こる事象だ。「◯年後にどちらが多数派になっているか」「どちらが生き残れそうか」と考えてみる。「絶対数でなく、増えている率で見るとどちらか?」と考えてみる。
「累積時間」はいちばん錯覚に陥りやすい要素のひとつ。「これから時間が経つほど、累積時間は増えていく」と捉えることで、見えている景色がかなり変わる。
◆「勇気」は最重要ではないが...
意見を表明する練習をしていると、「何をどこまで言うか」「どこから先は控えるべきか」の加減がわからなくなることがある。自分で「良いことを言ってる」と感じたときは、5割ぐらいの確率で間違っているかもと思ったほうがいい。
私自身は、相手の領域に踏み込みすぎないようにすること、温度を相手の温度と合わせること、に(最近は)かなり気をつけるようにしているから、大事故は起こさなくなった。
その裏返しで、その人の抱える問題は、当事者が時間をかけて消化し、解決していくしかないという価値観(ざっくり)で行動している。だから劇的な展開で人を助けたりということが、まずない。
◆「仕事」というものについて
「手堅い仕事」という言葉を読んだ。言葉(日本語)としてはもちろん知ってるけど、フォーカスしてちゃんと考えたことがなかった。ともすると「前回と違う新しさを入れたい」「前回より効率的にやりたい」で選択してします。つまり「自分が飽きないように」または「自分が楽をする=手抜きできるように」という行動原理が背景にある。
しかし、一流のプロになればなるほど、飽きないし、手抜きしない。自分で自分の動機づけをできて当たり前。自分を管理できて当たり前なのだ。
3.得るもののサイクルを大きくするコツ
前述の「得られるもの」は、行動しないことには手に入らない。そして、同じ行動するにしても、ド根性とか真心ではなく、コツみたいなものは存在する。特に「習慣をつくる」「言語化する」は、ファッションの分野に関わらず共通する要素だ。
◆アウトプットするコツ、みたいなもの
自分でブログを書くときもそうだけど、もっと小さい単位、たとえば勉強会のSNSグループで、ほかの参加者の投稿にコメントするケース。「コメント(積極発言)したほうがいいのは分かってるけど、つい後回しにしてしまう」ということが起こりやすい。
「なぜだろう?」と考えて、対策を書き出してみた。
・「良いこと言おう」と思わない。
「レベルの高いことを言わないといけない」「既出コメントと違う視点を提供しなければならない」と考えると手が止まる。純粋な感想でいい、既に出た切り口でもかまわない、というように、内容の完成度を気にしないようにする。
・自分の動作を決める。
「短くていいから、1人の投稿に1つコメントする」。難しければ「まだ一度もコメント入れてない人にいれてみる」、というように、Myルールを決めてしまう。または、「質問を1つ入れる」、「気づいたことを書く」のように、切り口を決めてしまうと、ハードルが下がる。例えば「思い浮かんだことを書く+気づかせてもらえたお礼一言」とすると、型が決まって、しかも前半部分の内容によらず締めくくりやすい。角も立たない。
・心をこめなくていい。
ルーチン化すると、「心がこもらないからダメでは」と思いたくなるものだけど、「心がこもってるかどうか」は、なかなか相手にはわからない。
でも、SNS(デジタル、非対面)の世界で、「悩んで、コメントしない」は、相手から見ればゼロだ、※良い悪いではなく、量的にゼロなので、気づかれようがない。
・「時間」を決める。
一日のなかで、一週間のなかで、「寝る前の10分はコメントタイム」「日曜の朝は早起きして30分はブログの原稿を書く時間」のように"時間割"を決めてみる。
・「反省」しない。
ともかく、「まず書くことに意味がある」という立ち位置を取る。続いたら喜べばいい。休んでも正解、ぐらいに考えておく。ハードル上げずに書く→コメントの数と種類を増やすのに貢献→他の参加者も「こんなことでも書いていいんだ」とハードルが下がる→コメントの数と種類がもっと増える、と良いことづくめ。
・「小さな作業」に分解する。
1行だけでも書く。あとで書き足すつもりで書く。もしくは、一言メモをスマホで書き留めておいて、後で文章につないでいく。一気に文章を書くよりもかなり楽になる。※かなりおすすめです。私の場合、noteやFBの長文投稿はほとんどがこれ【この投稿も】。
隙間時間で一つずつ増やしていく(減らしていく)ことは有効。溜め込むと意欲が阻害される。夏休みの宿題や会社の仕事と同じだ。
◆プレゼンの「準備」
・準備したほうがお得。
プレゼンタイムは「手を挙げるか挙げないか(当てられるか当てられないか)」の二択。「0.7」とかはない。「ある前提」で準備する。せっかく準備したら当てられにいく。俗にいうエレベーターピッチと同じだから、ショート版とロング版、まじめ版とユーモラス版など、複数パターン用意するほうが勝率が高くなる。当たり前だ。
結果的に出番がなくても、損することはない。現実の世界での貴方や私の"打率"を考えてみるといい。10割じゃないし、4割ですらないだろう。
・加工しやすいツールで書く。
オンラインセミナーの場合、直前まで作り込みや、変更ができる。シェアもしやすい。または記録として残しやすい。「検索できる」と「再加工のしやすさ」はデジタルのいいところ。MS Wordやnoteは文字数が自動カウントされる点が便利だ。
◆「意味性」と「言語化」を考える
・自分より詳しい人の価値。
どんな分野でも、「詳しい人間が意味性を教えてくれて、かつ素人質問にも答えてもらえる」環境があると、好きになりやすい。逆に「意味や目的を教えてくれずに反復練習」「素人質問をするとバカにされる、怒り出す」だと、一気に嫌いになる。
スキー、ゴルフ、写真、音楽。なんでも同じだと思う。歌舞伎や茶道、ラクビーやアメフト、カーリングでも同様の現象が起こりやすい。「解説なしで見るとなにをしてるのか解らない」が共通項だ。
意味、背景がわかると、ルールやチームや選手、道具の名前を覚えたり、面白いと思えるようになる。
「意味性を教えてもらえるかどうか」は、料理や家事全般、学校のテストや受験、新人が仕事を覚えるか(好きになるか)、多くのことに影響してると考えている。
・「道を極める」ことの限界説。
私自身は、「1つのことだけを極めた求道者」よりも、「2つ以上の軸を持つプロ」を好もしく思う傾向がある。特に、考える力(習慣)と、言語化の能力だ。たとえばスポーツ関係だと、二所ノ関親方(考える+話す)、ダルビッシュ投手(考える+SNS)、為末大さん(考える+書く)といった人たちに惹かれる。
・言語化と得るもの。
「考える+言語化」は、生涯収入に大きく関係があると考えている(仮説)。前述の、プロスポーツで活躍した人がセカンドキャリアを構築できるか(仕事を獲得して稼げるか)、というテーマを為末さんがブログに書かれていて、非常に説得力ある、また考えさせられる内容だった。
・どうやって備えるか問題。
その仮説の研究のための、定期的に読んだり視聴する"教材"が、そのままダルビッシュさんだったり為末さんだったりする。自分がぼんやり考えているイメージの、はるか先を進んでいて、しかも同時代でリアリティがあって、おまけに無料(タダ)の教材だ。
・自戒のための見本として。
「天は二物を与えず」ということわざがある。私たち凡人にとっては大変残念なことに、そんなことは全然ない。超一流の才能の持ち主は 専門分野以外の能力も鍛えていて、一級のレベルにある。才能がない 時間がない 環境に恵まれれば、、、と言い訳しないための戒め用のモデルでもある。
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学校の"科目"のひとつに「ボディ(Being body、あえて要約すると どう在りたいか の身体版)」があり、触発されて朝ウォーキングをはじめました。
1回40分~、3.5~4kmぐらいのことだけど、すっきりしてその後の仕事の時間もコンディションが良いと感じる。歩いているあいだ、溜まってるVoicyやyoutubeを聴けて効率もいい。
まだわずか1か月強、かつ雨の日は休んでるけど、ウェストまわりがすこし絞れて、パツパツだったズボンが普通のフィット感へと変わってきてる。在宅ワーク時の仕事の効率(脳がすっきり動きはじめる感覚)も良くなったように思える。
こんなに効果がすぐ体感できると想定してなく、モチベーションが上がったので、当面続けてみます。
(続く)