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vol.044「勝手に期待し勝手に傷つく。プロの価値を安く見積もる。評価の軸は自分の内側に持ちたい ~ ドーラ船長は特別で例外だ」

自分がコントロール出来ることに全集中する、は、当たり前のようで、案外難しい。どうしようもない外的要因、既に確定した過去を嘆く、恨む。他者に勝手に期待する。外れたら勝手に怒る。
つまり、「コントロール出来ないこと」に時間とエネルギーを割いている。
ここで「他者」は、自分以外のすべての人間。つまり家族も含む。というより、家族こそは最大の環境であり、変えられない所与の前提条件だとも言える。


◆自分の理想を重ねる現象。

久しぶりに友人と再会して、さまざま話し込んだ。
彼女は勉強の先生の一人でもある。ファンになり、リピーターになる先生の共通点、『内容そのものが面白い+話す能力が(異常に)高い=その分野の素人がずっと聴いていたいと思う』にあてはまる人物だ。

出た話題のひとつが、「勝手に期待する現象」。
詳細は互いに守秘義務があるので割愛・抽象化すると、「提供しているサービスと違う内容を求めて、それが受け取れなかったら傷つく」といった事象だ。
たとえば、
・技術/知識を提供しているのに対してメンタル面のサポート、1対多の講義型に対して個人のケアを求める(→満たされないと傷つく)
・コーチング、カウンセリングのサービスを受けているときに、具体的な解決策や一発で成功するソリューションを求める(→提供されないと憤慨する)

みたいなイメージだ。

パズーとシータは住み込み手伝いの条件で仲間に入れてもらったのに、勇気をもらい、命を救ってもらい、励まし慰められ、帰路まで送ってもらえたけど、あれは例外。ドーラという海賊のプロフェッショナルの、度量の大きさ面倒見のよさ親切さがもたらしたものだ。

※ドーラ的なキャパシティの広さは、まれに現実世界でも出会う。師たちにもそういう側面があるけれど、生徒(弟子・見習い)側との相性、波長が合うかにもよるように思う。

話を戻すと、「勝手に期待する」ことはつまり、自分の中に理想像があって、それを相手に重ね合わせている。

◆「評価軸を内に持つか外に持つか」問題。

関連して、勝手に期待し、勝手に傷つく人は、「評価軸をどこにもっているかと関係するのでは」という仮説。自分への評価を自己の内部に持っているか、それとも外部に持っているか、ということだ。

外部に持っているから即ダメということではなくて(100か0かでどちらか、という人はめったにいない)、外部に大きく依存していると、他者に認められなければ不安になる。
内部に軸足を置く。言い換えると自分の価値を自分で規定している・行動を自分で決定してると、他者に理想を重ねる→(主観的に)裏切られて傷つくことがない。

過去に参加したセミナー等でも、「講師が(つまりその道のプロが)運営ルールを提示したり、授業内容の一部を変更すると、それに対して抗議(いわゆるクレーム)をもらうことがあります」と聞いたことがある。苦笑いモードで話されることが多いけど、実際にはかなり煩わしいものだろうと想像する。
これも「勝手に理想像を重ねる現象」、それに「自分に何の権限もないことに申し入れする現象」だ。「、誰がリスクを取っているか出資しているか」という視点を持っているかどうか。持ってはいたとしてどのあたりに線を引いているか、の問題だ。
場の、たとえば学校のルールは、違法行為でもないかぎり淡々と遵守すれば、まず間違いは起こりにくい。変えてほしいと思ったら、一度フラットに提案してみるのもいい。「この場のオーナーは誰か」ということを失念しなければいい。

けれど、他者に理想を重ねる、勝手に期待をすると、それがかなわないときにこじらせる。自分の評価や判断は、自己の内側に持っておきたい。「自分の機嫌ぐらい自分で取りなさい」という名言があるけど、同じことを指摘したものだろう。

◆「プロの価値」を安く見積もっている。

専門技術の講座で、個人別のメンタル面を含めたサポートを期待する。
講師が定めた運営ルールや、授業内容の変更に反発して抗議する。
あるいは、講師から出された課題をやらない、もらったアドバイスを我流に変えてしまう。

これらの行動は「プロの価値を、(無意識に)安く見積もっている」ために起こるのはないか、という話になった。

・プロの単価、ほかにも仕事があることを理解できないために、授業料に含まれないサポート、時間と手間を期待する
・その知識経験を獲得するのに、プロがどれぐらいの積み重ねをしてきたか想像せずに、無償提供を当たり前と思う
・「その道のプロが作り込んだプログラムは、素人が考えるより効果的である可能性が非常に高い」という視点が抜ける
といったことだ。

文字にして読むと当たり前に感じるけど、自分が正しいと思い込むと、失念してしまう観点でもある。
人の時間を奪う、有価値の財産(知識)をもらおうとする、勝手に解釈する。
プロはそういう場面に何十回となく遭遇してて、こちらにその気(ケ)があることをおそらくは瞬時に感じ取ってる。だけどこれらを当の相手に説明して気づいてもらうのは途方もなく骨が折れる。
だから言わなかったり、徐々に距離をとったりしているのではないか。
逆にいうと、そんな耳の痛いことを指摘してくれるプロがいたら、とてつもなく親切な先生だということだ。
 
 
そんな話をして、これら以外にもさまざまな情報交換をして、友人との再会は、とても有意義なものになった。

◆報酬を期待しない。

ミーティングを辞去して思い出したのが、逆のケース。すなわち、自分が聞かれる立場、教える立場のときも同じだろう、ということ。誰かに何かを教えたとき、意に沿う反応を期待しない。お礼や感謝を求めない、という感覚を持っておくことはとても大切だ。

人間はともすると教えたがりで、聞いてほしがりだ。
「自分が教えたい」だったはずが、「教えてやってる」に脳内変換する。「教わる態度が悪い」「ありがたみを解ってない」と腹を立てる。
精神的な報酬、好もしい反応を期待する。「さすがですね」「勉強になりました」と言われたい。できれば「おかげさまで成果が出ました」と言われたい。

「教える」の前段で「相談を受けたとき」も、まず「聴く」。相談はこちらの承認欲求を満たす場ではない。また、採用されないと気分を害するぐらいなら意見しないほうがいい。

 

◆人に薦めるときのポイント。

人になにかを薦めるとき、紹介するとき。あくまでこちらの勝手な好意と位置づけて、"一方通行"で"情報を提供"する。
口で説明するのなら短時間で。メインは、相手のタイミングで読めるメールでの配信にする。受け取るタイミングはもちろん、読んだか読んでないかが直接確認できないのが、メールの長所だ。ラインやSMSだと、こうはいかない。
「読んでくれた?」「(参加や購入など)どう?」と催促していいかどうかは相手との距離感や、どちらから言い出した件かにもよる。
いずれにしても、教える行為はどこかでは一方通行の側面があって、「身につくかどうか」を強制しようがない、と考えている。

前述した勉強の先生たち=プロ が、専門知識を教える場合はむろんこれらに当てはまらない。大前提として有料で、したがって代価を先に払う。講座で出された宿題課題に対しては催促があっても当然だ。
ただ実際には強制されることはなく、本人の自由意志に任されることが多い。こういったプロたちはたいてい時間あたり単価が高く、ほかの(有償の)仕事で忙しい、ということでもあるけど、「自分のために学ぶのであって、他者から管理されるものではない」の原則だと思う。

「コントロール出来ないこと」に時間とエネルギーを投じる。怒ったり、恨んだりする。一時の快感(感情のはけ口)は得られるかもしれないけれど、「生産性」の点では何も産んでない。やや脱線するけど、「人生があと半年だとしたらそれやりますか?」等の設問も、同じ発想からきている。
でもそんなことは頭では判ってて、それこそ心情・行動のコントロールができにくい状態におちいるのだと想像している。

それを防ぐために、自分への評価の軸足を、自分の内側に持つ。
そのためには、意識して訓練するか、指摘してくれる人と付き合うしかない。忘れないようにしたい。


今回のテーマは、別の記事に対するコメントやり取りがきっかけで書いたものです。「家族も他者」という、当たり前だけど忘れがちな視点も、そのときに頂きました。感謝します。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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