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vol.037「距離感を調節するということ、続き:人が落ちているとき、「気を使う」とはどういうことか編」

人生で、重要なわりに、学校の教科書にはまったく登場せず、仕事をしてても教わることの少ない「距離感」。ここ最近で考える機会があり、続編的に整理してみます。

「距離感」が何なのか、説明するのは意外に難しい。
法律や条例はもちろん、「当コミュニティの規則」にも書かれていない。だけどどうやらそこに確かに存在する。書かれてないし教わらないのに、失敗すると回復が難しく、意識できてなければ損をする。

前回は「適切な距離感のとりかた」に置き換えて、「相手に使わせる時間、パーソナル度合いを調整できること」「自分が権利を有してないことに、勝手に口出ししないこと」と定義した。


1.目上の人と対峙するとき。

◆社会での実績や評価が上の人に対するとき

会話では、まずは「聞かれたこと」「振ってもらった話題」に素直に答える。こちらからの話題(質問)は、思いつきでやらない。会食なりミーティングに呼ばれた時点で、あらかじめ考えて、用意しておく。同席者がほかにもいる場合は複数用意しておく。「同じ内容を先に言われたらどうするか」を考えておく。
そして先方の部外秘のこと、無形資産に関わること、人間関係にかかわることは、話題を出されないかぎり、こちらからはおいそれと踏み込まない。

◆目上の人への距離感

「目上の人」には2種類いる。自分(その人)に対して気を使ってほしいタイプと、気を使ってほしくないタイプだ。後者のタイプに対しては、「気を使う」は解決策になっていない。 

たとえば会食に招かれたとき。上座に座るよう勧められたら、一言お礼をいってから素直に座る。「いえいえ、ここは先生が」等のやり取りで時間を消費しない。相手(目上の人)を、「招待客を立たせてしまっいる人」にさせないこと。

たとえば会食が終わったあと。「ここは払っておくから(あなたは出さなくていい)」と言われたら、一瞬考えて(つまり間(ま)をとって)お礼をいって財布は引っ込める。どたばたしない。
同じく、「ではここで解散(電車があるだろうから先に行って)」と言われたら、やはりお礼を一言いって、さっさと去る。ペコペコお辞儀をいつまでもしたり、いやいやと食い下がったりしない。

※ホスト役の目上の方が脚が不自由で、かつ、気を遣われるのが嫌いな方で、「私のことは捨てちゃって先に帰っちゃって」と言われた場面。この判断基準に従って先に帰っていた。礼を失して二度と誘われない等ということはなくその後も何度か食事にお声がけ頂いた。

◆「気を使える」とはどういうことか。

とりあえず気を使えば、安全で、後ろめたさもない。やってるほうの気が済むから、ついやってしまう。しかし「気を使わなくていい」と言われたら、それが「その人の意向」だ。「では、気を使うのはやめますね」とわかるような行動に切り替える。楽しんでいることが伝わるようにする。
出張や長距離移動時など、目上の相手(たとえば会社の上級上司)と同行する場面も同じ。「ほうっておいてくれ」と言われたら「では放っておきますね」と一言いって、必要のないかぎり話しかけず、かまうのをやめる。

「目上の相手に気を使う」とは、そういうことだ。それが「相手の視点に立って考える」訓練だ、と考えている。

2.助ける立場になったとき。

では自分が、いわゆる目上の立場にたったときはどうだろうか。

◆催促しない、恩を着せない。

相談を受けたとき、助力するときの心がまえで、もっとも重要なものとして、「恩着せがましくしない(見返りを求めない)」がある。

相談に乗ってあげたから その後の進捗共有を受ける権利がある。助言したら、そのアイデアはかならず採用されなければならない。連絡がしばらくこないとき、「どうなった?」と報告を催促する―。
これらは、当たり前のように思いがちだけど(※すくなくとも私はその気(け)があります)、全然そうじゃない。
恩着せがましい物言いをしたり、催促や説教をすると、その瞬間に、せっかくの行為の価値が半減する。「恩に感じる」とか「借りを返す」は、相手が決めるものだ。

◆踏み込まない、というマナー。

会社組織の、上司と部下の関係でも同じことだ。というより、間合いが近く利害関係が強固だからこそ、より気をつける必要がある。
部下の相談に乗ったり、求められたら一緒になって問題解決を考えるのは当たり前のことだ。そのための役職手当てだ。
相談には乗るが、踏み込まない。アドバイスするが、進展は静観する。ここを、なにか取引関係にあると思いこむと、飲みに付き合わせたり、元気になること前向きになることを"強要"する、という間違いを犯す。
 
上司は部下から見れば最大の環境要因であり、ストレッサーにもなり得る。血管の弁と同じで、非対称、片方向のシステムである、とわきまえておく。


3.人が落ち込んでいるとき。

知人なり友人が、かなり落ち込んでいると知ったとき。これがなかなか難しい。【※ここ最近で考えさせられたケースのひとつ】

◆道は、本人が自分で見つけるしかない。

大人になれば、よほどの親しい間柄でもないかぎり、その悩みの全貌がわかったりはしないものだ。まして、「どうしたらいいか」などは、まず分かったりしない。
解決するにせよ、逃げ出すにせよ、その道は、当の本人しか見つけられそうもない、ということが少なからずある。

そんな場面では、声をかけるのがとても難しい。
「落ち込まないで」「気にしなくていい」というのはもちろん違う。「大丈夫。きっと出口が見つかるから」というのも違う。前述のとおり、そんなことはわからない。

やっかいなのは、「わかる。私も同じようなことを経験したから」「その場面に遭遇したら、私だったらこうする」と言いたくなる心理だ。
人生の、ある差し迫った場面でどの選択肢を採るかは、そこに至るまでの経緯、その人の半生とセットだ。「私だったら逃げ出す」「反撃する」「見捨てる」みたいなことは、そうそう言っていいものではない。
その人の抱えている前提条件、抑圧、心の闇、そういったものが、他者にはわからないからだ。

こういう場面で、私自身はある意味でかなり臆病だ。あるいは冷淡だ。励ましたり同調したり共感したりしないようにしている。要するに放置して、遠巻きに、静観する。「結論が出るまで態度を保留」するようにしている。
 
むろん、「あのとき声をかけてもらって救われました」ということもあるから、何が正解かはわからない。それなりに確度のたかい、一定の誠実さある態度だとは思っている。


◆報酬が支払われるべき、という錯覚。

似たケースでいうと、「共通の上役(師匠や上司)に誰かが問い詰められているとき」がある。問い詰められてる、というのは別に説教や叱咤にかぎらず、「問いを突きつけられているとき」もそうだ。

ボクシングや野球と同じで、フィールドで誰かが戦っているとき、外から見えると物事がよく見渡せるものだ。
だから、問い詰められている相手に横から かさにかかって言う。そこまで行かなくても正しいことを言う。重ねて質問する。「自分だったら」と感想めいたことを言う。
身も蓋もなく、悪い言い方をすると、褒められたい、手柄を立てたいという邪念がそこに混じる(※人によります)。または、お礼を言われたい感謝されたいという欲求が混じる。
「自分は報酬を受け取るべきである」という心理が働くのだ。

全部がダメ、というものでもなく、口出しすることで、膠着(こうちゃく)した空気が流れて、場全体が和むこともある。よけいにギクシャクすることもある。「余計なことを言うな」と叱責されることもある。
前述「人が落ち込んでいる場合」のそれと似ている。

当事者がそれぞれ「自分で考えて答えを見つけるしかない」のと同じで、関わるほうも、自分で考えて口を出すか静観するか等を決めて、ときに痛い目に遭うしかない
人間は、行動して、できれば失敗を重ねることではじめて、成長痛みたいなものに見舞われて、伸びていくものだからだ。


 
「距離感」は、体系立てて説明する教材を、いまのところあまり見かけず、その割には個人で世の中を歩いているときの影響が大きい。
実験して磨く甲斐のあるテーマ、平たくいうと投資対効果の大きい、希少性を発揮しやすいテーマだと思ってて、引き続き研究していきます。

 
お読みいただき、ありがとうございました。


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