vol.181「1年ぶり、三回忌で聴いた話。お坊さんたちの他流試合?」
過日、母の三回忌に行ってきました。先代のご住職(お祖父さん)以来、三代にわたってお世話になっているお寺です。
葬儀はご子息→お盆は住職→一周忌はご子息、ときて、三回忌はご住職でした。
◆今年の「質疑タイム」。
お経、そして法話。法話は、先ほど読んだお経の意味の解説でした。
一部だけ紹介すると、
「劫は時間の単位。山ほどもある巨大な一枚岩が地上にあって、そこに天女が百年に一度降りてきて、手に持った羽根でさっと触れる。それを繰り返してその岩山が削れてなくなる時間。まあ、ありえない長い時間、ということです」。
「途方もない長い時間」の話は仏教で多く出てきます。「長い時間修行して徳を積んだ御仏が人間を救う」という概念は、「先に人の罪があって、世界の最後に神様に裁かれる」という西洋的な(アブラハム的な)概念と、対偶をなすように思います。
すべて終わると、坊守(住職の奥様)がお茶とお菓子を運んで来られました。みんなで椅子を持ち寄って、本堂で軽い茶話の時間です。
前回のような「質問タイム宣言」はなかったけど、せっかくだから質問をしました。
「お経や法話の練習はされるものですか? また元ネタ集めのようなことはされますか? 一周忌でご子息にお聞きしたら、『練習は特にしないけど 法話の上手な他のお寺の住職の話を聞いて勉強する』と言われてましたが」
「はい、他のお寺に話を聞きに行きますよ」
「聞きに行くということは、受け入れもする、行き来があるのでしょうか」
「そうです、同じ宗派のお寺がこの地域で十幾つあって、回り持ちで集まります」
「この地域だけで十幾つ、多いですね!」
「はい、そこでお経や法話をお互いに勉強しています」
「ご子息は、『偉い階層の方でも話が上手とは限らない』という意味のことをおっしゃってましたがやはりそうなんですか」
「そうですね(苦笑)」
「それから、同じ地区の、別の宗派のお寺も含めて集まる会があります」
「え、違う宗派のあいだでも行き来があるんですね!!」
「そうです。けっこうな人数ですよ」
「あの、そういうときはどこに集まるんですか?各お寺で会場持ち回りなのか、特定の寺には集まりづらいからどこか中立の場所で集合、なのか」
「このときは人数が多い、何十人かになるので、◯◯(※この地域では知られた旅館)などに集まります」
「へぇ~、面白い。宗派を超えて交流があるとは知らなかった。面白いですね」
「はい、この会は面白い、いいですよ。非常にためになります」
「すごく勉強になりました。今日はありがとうございました」
◆寛容であることの価値。
宗派(浄土宗、浄土真宗、真言宗、禅宗 等)を横断するかたちで、定期的に交流があるとは、日本的、あるいは多神教的だなぁと感じます。
寛容さの表れとして好意的に受けとめましたが、人によっては/信じている宗教によっては「許せないいい加減さだ、堕落だ」という判断もあるでしょう。私はいい加減さ、異なる価値観の他者を否定せずただ認めること、互いに構わないことを重要視していますが、「交流する」のは一歩進んでいて、とても良いなと思います。「違う視点を仕入れられる機会」というのはすごく価値が高いから。
当日、着替えようとして、喪服のネクタイが知らぬ間にネクタイ掛けから床に滑り落ちていることに気づきました。大剣の先端が折れた状態でクセがついていました。
アイロンの温度「中」湿気あり で当て布をして押しがけするも、きれいには戻らず。ためしに、折れと逆向きに小さく巻いて、しばらく留めて置くと、すっかり回復していました。無事に出かけることができました。
同じ宗派内の行き来よりも、宗派間ほうがさらにためになる。非常に示唆に富むお話です。良い意味でのチーム対抗戦的な張り合いもあるだろうか。言われてみればそうなんだろうけど、柔軟で、このお話自体が面白かった。
触れたように、多少の価値観の差や意見の違いで 相手を全否定しないことの大切さを確認したできごとでした。
最後までお読みくださりありがとうございます。
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