vol.122「『多様性を受け入れる』とはなにか。理解するのは後でいい。理解しなくてもいい。存在を否定しないこと。」
前に「ダイバーシティ(多様性受容)とはなにか」みたいなディスカッションをする機会がありました。
自分自身を顧みると、日本的な社会(文化・価値観)では、いわゆるマイノリティー側の立場になったことはほとんどない。危害を加えられたこともほぼないと思う。せいぜい、子どもの頃、体育が苦手でちょっとからかわれた、ぐらい。友人は少ないけど、いじめとか迫害されたから、ではなく価値観と性格の問題です。
「多様性とはなにか」というシンプルな問いに対しては、まだ答えを見いだせていない。自分の意見、自分の言葉を確立していない。
ただ、
『「多様性を認める」とは「存在を否定しないこと」。「理解すること」ではない』
とは言えそうだと思っています。
◆「多様性を認める」とは。
「多様性を認める」というと、なんとなく「相手のその価値観を、きちんと知ったうえで、認める」「理解する」を想像していました。
そういう指示、明確に短い言葉で指定されたわけではないけども、多様性(ダイバーシティ)を普及させる広告や映像をみると、「場に参加する登場人物全員が、笑顔で打ち解け合う」イメージがある。
もちろん広告は、短い時間でまず印象に残すためのものだからそうなる。
問題はそこではなくて、「いい人どうしが、互いに対角線の数だけ理解しあわねばならない」という、やや偽善的な感じ。正確にいうと断片的な感じに違和感を覚えているのだと思う。
「理解する」よりずっと優先されるのは、「存在を否定しないこと」だと考えている。
自分が理解できない(惹かれない・意味のわからない)趣味だろうと、恋愛観だろうと、生き方や性質(LGBTQ)も含めて、反発を覚えるとか気持ち悪いとかは個人の中でとどめればいい。
存在すること、普通にその人の人生を生きる権利を否定しないことが重要なのだ。
「ちゃんと理解しましょうね」を優先キーにすると、まかり間違えば「理解できるまで認めない」落とし穴に陥る、あやうさがあると思っている。「理解できないから認めなくていいですか?」みたいな論法が成たちそうだと思っている。
「理解」はずっと後まわしてよくて、何なら理解できなくてもよくて、「否定しない」こと。邪魔しないことが最初にやること、合意することだと考えています。
裏返すと、「多様性を認めない」とは「存在を否定する」こと。自分の理想、定義があって、思い通りでなければ認められない、という状態。
理解できない、したくないから否定する。排除にかかる。SNS上で、また現実に、起こっていることだ。
◆「表現の自由」はどこまで許容されるか。
この問題とセットで起こるのが、「表現の自由はどこまで許されるか」だ。
まず、どんな思想も、頭の中で考えるぶんには自由が保証されている。正確にいうと、「こんなことを考えているに違いない」という根拠だけで罪になることはない。同性どうしの婚姻、選択的夫婦別姓、結婚しない選択、男女以外の性自認、、、さまざまなテーマに対して、賛成・反対・どう考えるかは完全に自由だ。
またそれらの考えを、ブログなり、動画/音声配信なりで、表明するのも自由だ。言論の自由として保証されている。(※根拠のない誹謗中傷、名誉毀損に該当するケース等を除く)
では例えば、自分の考えを当事者に(匿名の)メールでおくる。SNSの【相手の】タイムラインに書き込むのは自由だろうか。
難しい問題だけど、「一回目は、話しかけて話題に出す自由がある」だと考えている。それに対して相手は、すかさず断る自由がある。席を立つ自由がある。二度と連絡を取らない自由がある。
つまり、相手が拒否の意思表示をしているとき、話を続ける権利、無理に聞かせる権利は保証されていない、という意見だ。
多様性に関する意見の衝突が起こるとき、片方がもう片方の考えを変えさせようとする現象がときどき起こる。「どうにか悔い改めさせようとしたがる衝動」と言い換えてもいいかもしれない。
たとえば「男は働いて稼いで家族を養え」「女は家庭に入る/子育てするのが幸せ」といった価値観は、減衰してるかというとそうでもない。
「時間軸」で見ると上の世代へ移動しつつある一方、「総人口に占める割合」で見ればまだ少なからず残っている。
また、多くの場合、人が最初に出会って、長い時間接する大人は「親」だから、その価値観が一定の確率で子どもへ引き継がれる。そうすると時間軸を越えて残り続ける。
「ある価値観が消滅してるか残ってるか」は、自分の周囲を見渡して判断できるものではなく、母数(人口)と伝播率、のような関数でとらえるものだと思っている。
ある価値観の人が、相反する価値観の人の、意見をどうにかして変えてやろうと、説得を試みるとき、摩擦・衝突が起こる。
◆説得したくなる。または「わかる,わかる」と言いたくなる。
相手の考えを変えさせようとするとき、その人(説得者)に悪気がまったくないことがある。
自分の価値観が、相手にとっても良いことだ、そのほうが幸せになれるよ、と思っている場合、悪気がない。自省するタイミング、自省する視点を持ってないからだ。
そしてしばしば、反論されることを想像してない。それまでの人生でたまたま知らなかっただけであって、相手が納得するものだと考える。
関連して、ある問題に対して、「私ならこうしてた」と言いたくなる。「あなたにも原因(落ち度)があったと言いたがる現象」と呼んでもいい。
私も「自分は深く考えることのできる人間である」という錯覚にとらわれやすいほうだ。
「当人が深刻に悩んでいて、辛い目に遭ったうえに、無関係の第三者(たとえば私)から非難される義務はあるか?」と考えるようにして、気をつけている。
逆に、同調(同情)したがる心理が働くこともある。「わかるわかる」「私はあなたの味方だよ」と言いたくなる心理だ。
「わかる」は、ほんとうに難しい概念で、こちらが理解できたと思ったことが、当事者にとって「理解してもらえた」となるとはぜんぜんかぎらない。「わかる」の定義は、たぶん数千年のあいだ賢い人たちが考え続けてて、まだ最終解は見つかってない。合意できてない。
とてつもなくやっかいな問題なのだ。
この「説得したがる」「責めたくなる」「解ると言いたくなる」のコントロールはものすごく難しい。口出ししたくなるものだし、よかれと思って同調したくなるもの、「私は理解してるよ」と表明したくなる。
これらを自然体で、または深く深く考えて、「絶妙に放置」できる人たちがいる。立ち入らず、本人が自分で結論を出すものと見切っている。といって突き放すわけではない。離れる・近づくの調節ができる人たちだ。本当に尊敬する。
もうひとつ、「気の利いたことを言わなければ」心理も頭をもたげる。
自分の出番がきて、意見をいうとき、「なにか気の利いたこと、賢いことを言わなければならない」という心理が働く。「人と違う切り口でコメントしたい」「まだ場に出てない視点を提供したい」といったことで、かならずしも悪いことではない。
口に出すまえに「これを言うことで傷つく人がいるかも」「アピールのための奇をてらった発言になってないか」と点検できればいいなと思っている。
「相手のことを理解する」の理解する、「わかるとはなにか」というテーマは、時折考えて、だけど今のところわからない。
すべての人間は、【自分以外の他人に乗り移って試しに生きてみる】ことができないから、もしかすると永久に定義の決まりきらない問いなのかなとも思っています。
また考えがカタマリになったら、書きます。
最後までお読みくださりありがとうございます。
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