vol.022「ファッションの学校に、サポートで参加して考えたこと:リスクを取る練習をしよう~「勉強しい!」「そのとき慌てても間に合わん!」~ 何を大切だと思う人か?」
政近準子さんの「MFJ(マインドファッションジャパン)」に、ひょんなことからサポーターとして参加させて頂いている。「サポーター」とは、すごくざっくり言うと、「役割がかなり流動的な、裏方のお手伝い」だ。
1.いまの自分に何ができるか
◆自問自答「何ができるのか。何かできるのか」
今回、「サポートで手伝ってみないか」と声かけを頂いたとき、「自分に何ができるだろうか」と考えた。
MFJとの関与度でいうと、昨年のプラクティショナー(まずは自ら実践者コース)の0期を受けたのみ。それも、全4回のうち前半の2回しか出席できず(それだけで受講料のもとは取れたけども)、"卒業"すらしていない。まして次の中級コースも受講していない。
受講生の多くが、自分よりファッションに詳しい。または職業にされている。または在籍期間が長い。または政近さんとの接点も多い、という環境なのだ。
考えて、出した答えが「ファッションの知識 ではなく、盛上げ・観察・記録する」こと。平たくいうと「できることを、淡々とやる」。
「できること」を、質で捉えるとぼやけるから、量(回数と範囲)にフォーカスする。受講生から投稿があったら、現在の自分のレベルでいいから、とにかく1回は反応する/コメントを書き込む(範囲:全員に、量:1回以上)、みたいなことだ。
「質をいまは望めないとき、量=回数や文字の量 のほうを固定する」は、さまざまな場面で、有効なアプローチだ。
◆「保険」をかけない
もう一つ、決めたのが「こまかい質問をしない/了解を求めない」こと。「事前に許可を得たい」「間違ってないかチェックしてほしい」等の欲求を捨てさること。要するに「保険をかけない」こと。
「何を、どこまですればよいか事前に質問する」は、有効な手法だし、足を引っ張らない、場の価値を下げないことを考えれば、けっして間違いではない。
しかし一方で、「こまかい指示が来ないということは、自分でまず考えよ、行動していいということだ」と判断するのも、もうひとつの"正解"だ。
声かけなり見定めなりされる段階で、主催者は先にもうリスクを取っているし、リスクの最大値のみきわめ、人物鑑定も済んでいるのだ。
確認の質問をする、許可を求めるということは、その分、相手の時間やリソースを奪うことだ。「考える責任」を相手に転移することだ。保険をかけることだ。(※良い悪いのニュアンスはなくて、その構図が持つ意味、単純な足し算引き算の話をしています)
こまかい質問をするかわりに、その人の日頃の発言、タイムライン、コメントでのやり取りを参考に、自分で判断することはできる。であれば判断したらいい。
「失敗しないよう指示を求めること」と「距離感を調整しながら自律的に行動する」ことは、トレードオフの関係にある。
大きな過ちをしでかしたら、いやでも指摘してもらえる。あまりひどければ出場一時停止処分なり何なりあるだろう。起きてもいないことを先回りして心配することはない。
変な言い方になるが、「相手の(自分よりも格上の人の)人を見る目」を信じて、自分を信じる、という"単純作業" だ。となれば、悩む工程はカットしたほうがいい。
・・・と考えて、安全を取るかわりに、リスクを取ってみることにした。
※たとえばいま書いているこの記事も、事前にお伺いを立ててない。"答え合わせ"をせず投稿している。
◆何をしているのか
サポーターとして何をしているかというと、大きく二つ。
①備える
・気づいたこと、気になったことをメモで書き残しておく。
・「受講経験者から一言」「手伝ってあげて」と言われたら、なにか貢献できるようシミュレーションする。
②発信する
・過去にストックしているひな形、言い回し、素材集を思い出しながら、話すか、書く。
・わからないときは、自分より上級者、自分より先を行っている人をひたすら真似る。
備えながら待機する→出番と思ったら発信する。この二つを(ひたすら)繰り返す。言いかえると、ファッションの造詣をこの短期間で詰め込む、レベルアップする、みたいなことは放棄(ひとまず後回し)した。
2.授業で教えていること
政近さんに限らないけれども、いわゆる一流の、お得な学校の共通点が「授業が開催されない日も学び・上積みがある」ことだ。
考える題材がさまざま提示される。題材について、調べる、疑問を持つ、自分の頭で考える、その訓練をするからだ。
やっていることを、分解してみると、主に3つ。①自分で点数をつけて発表する練習、②他者を認める練習、③自分で勉強する習慣づくり をやっている。
◆ ①自分で点数をつけて、発表する練習をしている
人から「これいいよ」と、なにかのアート作品を紹介されたとき、判らないものを判ったふりで「いいね」と言わなければならない気がする。または、気の利いたコメントを返さなきゃと、変なプレッシャーを勝手に感じる。
知らない現代アーティストの作品を観たとき、小学校の教科書に載るような名作と比べて、「大したことないな」という立ち位置を取ろうとする。または、足を運ばないまま、見送ってしまう。
悪意があるとか、学ぶ姿勢ができてない、の以前に、「自分の目で見て、良し悪しを言うだけのことなのに、その経験値があまりにも少なすぎる」ことから来ている。
「芸術作品の良し悪しがわかる知見」とかそんな大げさな話ではなくて、そのずっと手前、「自分で、【自分にとっての】価値を判断して、点数をつける作業」のことだ。
自身を振り返っても、「これって、いいね!を押して大丈夫か(恥をかかないだろうか)」という「ブレーキペダル」に、つねに軽く足を置いている自覚がある。でも、あたりまえだけど、踏むべきは「アクセル」だ。
学校ではそのことを教えている。
生徒が、自分で考えて、それを表明する。「学校という安全な場所 で、リスクを取る練習」をする。そこにとても大きな意義があるのだと思っている。
MFJで出される課題は当然ながら、ストレスのかかるものばかりだ。
「自分の答えを発表して他の人からコメントをもらう」ことももちろんだけど、反対側の立場、「誰かの答えにコメント(指摘)する」ということがすでにストレスのかかる「問い」になる。
回答はもちろん、コメントも、ガラス張りで、政近さんにすべて見られているとわかっているからだ。セミナーにおいて、講師の先生は「その場を支配する神」の感じがするものなのだ。
このストレスが、人数☓人数=対角線の数だけ発生する。授業がはじまる前から、事前課題にうんうん頭をひねっている段階から、とても負荷がかかる。強制ではないと明言されているのに、みんな課題と(そして自分自身と)格闘している。
※この一人ひとりを見ているフォーカス度、網羅するパワー、執着心が、政近さんはずば抜けている。信じられないほどで、ちょっとほかに似た人を思いつかない。
◆ ②多様性を受け入れる練習をしている
「違う分野にいるけど、姿勢(行動原理)は通じるものがある」人と意気投合すること、相手の価値観を容認ことは、実はすごく簡単なことだ。そうすることが「快適」だからだ。
違和感のあること、その時点で理解できないこと、反発を覚えること。言葉をえらばずにいうと「気持ち悪さや嫌悪を感じること」。こういうときに否定するのでなく、ひとまず存在を認めること。これが難しい。
たとえば私の場合、テンションの高い人、距離感の近い人、後ろ向きな人、他罰思考の人が苦手。適当に話を合わせたり、愛想笑いで無難にやり過ごすことができない。
※「多様性を受け入れるとはどういうことか」は、分けて別の記事で書きます。
◆ ③勉強する習慣づくり。癖づけをしている
もしかすると、政近さんが学校でもっとも強調したいことは、これじゃないかと思っている。
誰もがみな、やれることをやれば変われる。
誰もがみな、圧倒的に勉強の量が足りない。
この2つのメッセージは、考えてみれば、説明会のときから繰り返し繰り返し言われている。
勉強が足りない。ぜんぜん手間をかけてない。毎日時間を割いてない。特に、ファッションの学校に"主要5教科"があったとして、そのうち1分野、「社会=歴史と地理」が、まるまる無防備な状態。いわば地図と時計を持たずに旅に出てる状態なのだ、と再認識した。
「エネルギーをいただきました」「勉強になります!」と、口では言う。
「どうすれば結果が出せますか」「私、変わりたいんです」と質疑タイムで手を上げる。
だけどその後で実行する日人、継続する人、量を追う人は、少数派なのだ。
だからもし、「もっと勉強したほうがいい」と口を酸っぱくして指摘されたら、親切な先生だと思って間違いない。嫌われ役を買って出るのは、エネルギーも費やすし、面倒くさいものなのだ。
だとしても、入学後の授業ならまだしも、説明会で、「勉強が足りん!もっと勉強しいや!」と熱く語る先生は、そうそういるものではない。
「じゃあ、なんで生まれてきたの? と問いたい」
「そのまんまでいいなら なぜ学校はいったの?」
とか、「ファッションの学校」で、ふつうやりますか。やらないですよ。
MFJ学校は、校長先生も教頭兼美術の担任先生も、事務局長も、ふつうの人がいない。変態ぞろいなのだ。
3.学校で出会った"ヤバい人"~「そのとき慌てても間に合わん!」
「本気度の高いセミナー」みたいな場に参加すると、ふだん会えない人たちと出会う。「本気度が高い」とは、ストレートにいうと、参加する総コストが大きい場。信用を低下させたり、退出させられたときのリスクが大きい場のことだ。
◆「生徒会長兼スポーツ部主将」との出会い
今回、ファッションの学校でも、多くの刺激的な人たちに出会うことができている。知らない業界、知らない仕事、違う空気感やモチベーションを持つ人たちだ。
その中でも最大の出会い、本当にヤバい人("変態")。それが前述の"事務局長"、櫻田オフィサーだ。
櫻田さんとはMFPの0期が初対面。当時は、彼のバックグラウンドや世代、経歴など何も知らず、どういう人かよくわからなかった。さわやか、誰に対しても気さくなスタンスで、「さすが東京の人、フラット。進んでる」ぐらいに観察していた。(注:政近さんとのやり取りについては「なんだかなれなれしい人だなぁ」と内心で思ってた。オフィサーのほうが年上だと、のちに政近さんのnoteで知ってびっくり。)
その後、私はMFP0期の前半しか受講できず、櫻田さんとも特に接点を持つこともなく、しばらく時が過ぎた。
ふとしたことから1年ぶりぐらいに連絡を取り合うことがあり、前後して、MFJのオフィサーとして就任されたと知った。
久しぶりに説明会に申し込んで、受講する。当日、Zoomの画面の中に櫻田さんもいる。そうすると当然、互いに受講生の立ち位置とは景色の見方が変わってくる。彼が実は何をしている(してきた)かが目にとまる。
MFJの定義を借りるなら、「見てるようで見てなかったのが、見えるようになった」状態だ。
【注】この件は、①オフィサーに就任した=お墨付きの人だから、と見る目を変えた。つまり自分の判断でなく政近さん達の判断基準で行動してた、とも言えるし、②前年から時系列で景色を見るなら、判断基準を信じず、どこか疑いの目で見てた、とも言える。 これらは自分自身の思考の癖(壁)だと捉えていて、継続モニタリングするためここに書きとめておく。
しかし一方で、この時点でも、「器量の大きい、誰からも好意をもたれる、リーダータイプの人」だと認識していた。生徒会長タイプ、スポーツ部の主将タイプだととらえていた。逆にいうと、参謀的な能力、細かい観察力、分析や分解の能力は、自分のほうが優れているだろうと思っていた。(※私は典型的な参謀タイプ人材です)
投手でいえば、フォーシーム(速球)の最高速度はオフィサーに軍配があがる。でも変化球の球種やコントロールはきっとこちらに強みがありますよ、みたいな感覚だ。天体望遠鏡としての性能と、顕微鏡としての性能は別ですよね、みたいなことだ。
◆「解像度」と「実践力」に驚愕する
ほどなく彼が投稿した、noteの記事(マインドフル・ボディ・プロジェクトシリーズ、以下MBP)を読んで、心底驚愕する。
自分では、セミナーに参加する前の準備を、人よりもやるほうだと思っている。しかしそれはあくまで、話すネタ/質問候補の準備、事前課題の差異化、ノートを取る準備 だった。「頭の中で完結する事象」に偏重していた。
身体全体を前々から管理して仕上げていくのは、考えたことすらなかった。せいぜい、夕食を早めに・お酒は控える・起床時間を調整するぐらいのことだ。
<MBPを読んでのメモより転記>
①「意識する」の解像度を上げておくこと:
「青になった瞬間」「繋ぎ目等に触れないギリギリ」。「日頃から感度を意識しましょう」と口で言うのは簡単だ。「ここまでは出来でしまうんだよ」という物差し(実サンプル)があるかどうかで、行動と結果がまるで違ってくる。
知られる例だと「100m10秒を切ったとたんに次々と9秒台が記録される」みたいなことだ。私を含めた多くの人に、めちゃ参考になると思う。
②「大丈夫です」は大丈夫ではない:
その時では間に合わない、は本当にそのとおり。自分を過信するか分かっててサボるかして、さんざん痛い目を見てきたから、ものすごく納得する。エンジンをあらかじめ暖気してるライバル車にはレースで勝てない。「本番では本気出すから大丈夫です」はぜんぜん大丈夫じゃないのだ。「いざ、は突然やってくる」と同じことを指摘している。
③毎日を「本番」=同じ濃度 で過ごす:
「毎日の装いを課題と見立てて装う」→やっていなかった。在宅勤務になったこともあり、外出時も「定番・シンプル」にかまけていた。すくなくとも無意識から有意識に切り替えようと反省させられる。
そして、「より良い人生の為に装いを学んでいる。課題をやり過ごすのが目的ではない」、いちばん響いたくだりだ。
私はスポーツをまったくやらないけれど、自分の生活、フィールドに置き換えて、真似られる部分を真似たいと思った。
note(文字)での発信にとどまらず、リアル世界でのアクティビティもそう。具体的な内容にふれることは避けるけど、授業中(ライブ中継)の目配り。当日までの段階的な発信、授業後のラップアップ。
びっくりする安定感と、こまやかさのバランス。相手を信頼する姿勢と、信頼しているよと伝える方法とのバランス。
身近で観察させてもらえて、ものすごく勉強になる。
◆なにを大切だと思うか
現時点、謙遜でなくレベルも違うし、それ以上に、生きるスタイル、表現方法が違う。「違うこと」そのものは、それぞれの価値、補いあう領域がそれだけ広いということだから、良いことだと思っている。
そのなかで、共通しているのが、集団組織に所属していながら、孤独な時間を大切だ貴重だと考えている点だ。(櫻田さんnote プロフィール参照)
一口に「孤独」といっても、もちろん、完全に同じ定義であるはずはない。が、私も、一人が苦にならない。特定の人や場に依存しない。つるまない。「いつもの顔ぶれ いつもの店 いつもの話題」みたいなコミュニティが苦手だ。
重要な価値観のひとつが、一致しているから、歯車がかみ合うのだと思っている。
孤独を大切にすることの価値については、政近さんも言及している。
一人でも十分立てているから、お互いに価値を提供しあっているからこそ一緒に仕事ができる、という話だ。
政近さんのいう「運命的出逢い」は、そうそう簡単に起きるものではない。
ひとつは、記事のなかで触れられている、それまでの生きざま、温度の高さ、尊重できるかどうか。
もうひとつが、起こった事象に意味性を見出そうとする習慣、必然や運命などの「確率を超えるものを信じる能力」の問題だと考えている。※長くなるので別の記事にわけます。
※「偶然は偶然ではない」というのは、そのとおりだと思う。もし仮に軌道が交わって、物理的には出会ったとしても、同じ温度感、同じ程度の濃度で生きているどうしでなければ、会話が盛り上がらない。「次のアポイント」を言い出さない。政近さんの表現でいう「互いが、ガチな人生を歩んでき」てはじめて、「偶然ではない出会い」だと気づくものだ。
政近さんの「もっと勉強しい!」と櫻田さんの「そのとき慌てても間に合わん!」は、たぶん同じことを指摘している。
以上、MFJ2期、前半を終えた段階での、レポートでした。なによりも、自分が読み返す用の、備忘メモとして、書きとめておきます。
追記:生きていると、何百人か何千人かの人に出会う。
日常生活でひんぱんに顔をあわせる人。仕事やプライベート=人生で直接かかわる人。直に会ったことのない人。映画かテレビか、スマホのなかの、有名人。お金を出すかリスクを取れば会える可能性のある人―。
そのなかで、「この人はライブで一度は見といたほうがいい」という、野生の猛獣というのか、ファンタスティック・ビーストというのか、とにかく希少生物種と、ほんのときたま、遭遇することがある。
政近さんは間違いなくその一人だ。説明会に申し込んでみるか、なにかプログラムを受講するか、一度は観てみてほしい。
(つづく)