vol.023「知識か、系譜・歴史か、○○を追ってみるか:とにかく、補助線を引かないことには 何もわからない。」
引き続き、「MFJ」(マインドファッションジャパン)から。
「MFJでは、何を教えているのか?」について、一言でまとめることはとても難しい。
第2回までの授業内容から、あえてカテゴリ化すると、
・自分を囲んでいる箱(※)を認識し、できれば言語化する方法
・箱から出る行動を起こし、結果を自己採点し、しかも公開する訓練
・勉強する習慣を持つということ(知識を得るか、実践するかの二択)
・発信することでフィードバックが還ってくる体験
・フィードバックすることで他者に影響を与える体験
・他者を認めることで、自分の価値を再確認する課程
といったことを教えている、と思う。
※「箱」・・・とりあえず「固定観念」「殻」のようなもの。「箱」がなんなのか、また何のために学ぶのか?は、整理できたらまた書きます。
1.授業の一部をご紹介
授業の内容そのものは公開できないけど、第2回向けに実際に出された課題と、私が提出したレポートをご紹介します。※公開は了解を頂いています
◆出された課題
今回出された事前課題がこちら。(4月25日に公開された)
◆提出したレポート
これに対して、提出したレポートがこちら。(5月1日未明に提出。5月4日まで複数回修正)
課題提出は、①指定された項目の説明、②撮影した写真、でおこなわれる。写真がコチラ ↓
また、選んだ花の写真(薄紫の花と近寄るハチ)のかわりに、クレヨンを使ってスケッチを描き、当日、「手作りアナログのパソコン背景」として用いた。【冒頭のトビラ写真ご参照】
◆準備:原稿を書く
こういう事前課題をもらったとき、①原稿を書く→②喋ってみて時間を測る→③収まるように修正する→④当日ヒントが出たら直前まで修正→⑤本番でプレゼンする、という手順を踏む。つまり、「得点をとりにいく」「印象を残す」ことにかなりの力を注ぐ。特に今回はサポーターとして参加させて頂いてもいて、無防備のぐだぐだ、というわけにはいかない。
なので下記はたぶんver.5かver.6 ぐらい。
2.受けた衝撃:公正、捨てる、勉強せよ
課題以外の部分を公開できないのがもどかしいけど、あらためて感じたことを以下に挙げてみる。
◆大人として扱う
今回はじめて受講する生徒さんだから甘くする、褒めるだけ、ということを決してしない。
かえって失礼であり、喜ばれないことがわかっているから。そんなものを本人は求めてないと知り尽くしているから。
リピーター(通称"留年生")には、ときに厳しいことも言う。その場合、「事例に使わせてもらうよ」「今から厳しいことを言うね」と断りを入れる。おそらく、一人ひとりとの距離感にあわせて、言い方を調整している。
総じて、要求レベルが高い。相手を半人前あつかいすることがない。いちいち調整している。「一流の先生たち」に共通していることだ。
◆「勉強して!」
「勉強せずにレベルアップすることはない」、「そして勉強はいつでも誰でもできるはず」という話が繰り返し出る。具体的な(魅惑満載の、ワクワクするような)エピソード、登場人物とともに語られる。
「歴史の知識がないと、選択肢が狭まる」として、ミニ講座が展開される。いわゆる狭義のファッションだけでなく、衣服の歴史、繊維の歴史、映画や美術の歴史。テレビ、CM、芸能界や歌手も含めてのことだ。
同じく中身に触れることができないけれども、ひとつ間違いなく言えるのは、「とほうもなく親切なことを教えてくれている」(勉強したほうがいい、少しでも早く気づいて、とどうにかして伝えようとしている)ということだ。
◆公正に扱う
課題宿題に取り組む人に対しては、より多くフィードバックがある(※)。取り上げて授業で、ラップアップで、題材にする。当然ながらほかの受講生からもコメントがある。結果、さらにフィードバックが増えて還ってくる。
行動したら行動した分だけ、得るものがある。
機会は公正。結果は平等ではない(公正だ)。いちばんフェアなやり方のひとつだと思う。
※フィードバックは全員に漏れなくなされる。それも「一巡する」レベルではなく、返信の返信、受講生どうしのちょっとした会話も、拾う。話題の種を投げる。アドバイスする。ときに注意をうながす。
あのフォーカスの精度、一人ひとりを捕捉するセンサー、見守っている感がすごい。日中は仕事があるはず。それ以外もその準備や整理があるはず。何しろサービスもスクールも満員御礼状態なのだ。
タイピングが人の5倍速ぐらいなのか。だとして、どうやって読んでいるのか。いちど体験してほしい"魔法"だ。
◆あっさり捨てる
第2回の、授業の前半が押した。準備されていた「課題の実サンプル」(政近さんのキーワードと装い)をカットし、次のプログラムへと進んだ。
おなじく、授業の後半が押した。恒例のグループディスカッションの回数を押さえ、今回の授業を終えて解散した。
政近さんの実演は、生徒全員が見たかった。ライブで解説を聴きたかったところだろう。それを、あっさり捨てた。
グループディスカッションは、やってて楽しい。毎回盛り上がる。「え?もう時間?もう少し」と思う。にも関わらず切り上げた。
カットせず取り入れたほうが、その場の短期的な"顧客満足度"は上がったかもしれない。それを、わかったうえで、「捨てる判断」をする。
単に知識を得る「講義」ではなくて、マネジメント、全体を管理するということの、参考になった場面だった。
全体をとおして、あらためて強く感銘もうけ、衝撃を受けたのは、「自由奔放にレッスンしているようにみえて、コントロールされてもいる」ことだ。特に、「公正」と「捨てる」は、政近さん、MFJ運営サイドの大きな特長だ。
※サポーターとして参加こそしているものの、当日の進行や運営は事前にいっさい知らされていないから、「参加する生徒側」の目で、ほぼフラットに見ることができていると考えています。
※当日カットになった実サンプルは、昨日noteにて公開されている。装いのかっこよさもそうだけど、「そこに意味性を持たせる」ことの感覚が、伝わってくると思います。
3.補助線を持たないことには、なにも始まらない
MFJで、またnoteの記事で、繰り返し強調されるメッセージが、前述の「みんな、圧倒的に勉強の量が足りないよ」だ。
なにもプロを目指すとか、政近さんの境地に近づくとか、そんな難しい話ではなくて、「私、変わりたいんです、というわりには、できることをやってない」ということを指摘しているのだ。(※推測まじってます)
◆知識か、系譜と歴史か、「誰か一人を追ってみる」
なにかのテーマに取り組むとき、
①基礎的な知識を、ただしある程度、体系だてて学ぶ、
②主流な思想の系譜、ないし歴史で、ざっくりつかむ、
③とりあえず誰か一人追ってみる(できればファンになる)、
の3つが有効なのだけど、いずれもやってない。
たとえるなら、地図と時計を持たずに旅に出ているようなものだ。
もちろん知識だけで極められる、なんていうムシのいいことはあるわけがないし、政近さんもそのことは指摘している。
その通りだと思う。
だとしても、知識がないことには「いま自分がどの地点にいるのか」すらわからない。
逆にいうと「基礎知識」「系譜・歴史」「誰か一人の視点」を得ることで、なにもない真っ白な空間に、補助線が引かれる。足場ができる。
ということで、第2回を終えた後、関連書籍を注文。届いたので開いてみた。
◆はじめまして、ヨウジヤマモト
「誰か一人の視点」の第一弾。山本耀司さん(ヨウジヤマモト)。
政近さんのnoteやプレゼンでたびたび登場する、有名なファッションデザイナーだ。ご子息のお名前に一字を取ってつけた(「耀」さん)、というエピソードがnoteにも紹介されている。
恥ずかしながら不勉強すぎて、「お名前はもちろん知っていますが、、、(てんてんてん)」ぐらいの知識レベルだった。
以上、ふせん箇所より抜粋。要約するだけの視座をいま持ってなく、そのまま書き出してメモ保存した。(『服を作る モードを超えて』中央公論新社、https://www.amazon.co.jp/dp/412005196X/ )
その前提での、所感1回目。まずは「抽象化」をこころみる。
・けっして満足することがない 過去を否定する
・シャイである 人見知り または人間嫌い
・拘束されること、指図されることが大嫌い
・恐れをいだく対象を心のなかに持っている
・友人は少ない 意気投合するときは早い
・捨てている 制限を設けている
・直観でわかる 形が見える、と言う
・群れるのが嫌い または 孤独が必要だと考えている
・インモラル、不道徳な側面を持っている
・専門分野外の知識、知性、見識を重要視している
満足しない。人付き合いが狭い。取捨する。独自の「型」を持っている。見えないものを「見える」という―。
超一流の結果を出している、なんらかのクリエイターに共通する部分が多い。
たとえば故・立川談志さんや談春さんと通ずるものがある。たとえば故・中村勘三郎さん(十八代目)の生前のインタビューと重なる。例えば羽生善治さんの著書で、似た視点で語られていた。
実母への敬慕、スタッフへの愛情と試練、製作開始時点ではゴールが見えてない、といったくだりは、宮崎駿氏のエピソードに、非常に似ている。
もちろん、Youji Yamamotoがジブリ作品を観たとは聞かないし、宮崎監督がファッションにこだわっているはずはないが、そう感じさせる―。
こうやって、比較できる手がかり、測定するものさしを、行ったりきたりしながら、すこしずつ入手して、ためこんでいくのだ。
「1969年「装苑賞」受賞。過去にコシノジュンコ氏、高田賢三氏、山本寛斎氏らがいる」とある。川久保玲さん「コム・デ・ギャルソン」と同じ時期にパリコレに参加した、ともある。
MFJ授業や政近さんの記事でたびたび登場する"偉人たち"の関連性、位置関係みたいなもの。ようやくうっすらと、点線が引かれてくる感覚だ。
(公式サイトより)
装苑賞「1960年代後半」 https://soen-award.com/soensho/works/sample-works3/
山本耀司氏受賞作品 https://soen-award.com/soensho/wp-content/uploads/2019/12/picture-2066-1835-600x600.jpg
本を読むことは、「知る」ことを意味しない。せいぜい、検索するためのキーワードを知る。「目次」を手に入れるぐらいのことだ。
それでも、まず一冊、手にとってよかった。
繰り返しになるが、何にもなかった白い空間に、補助線を引きはじめることができるからだ。補助線を、1本引いただけでも、すくなくとも「線のどちら側にある事象か」を認識することができるからだ。
こちらはまだ読めてない。『山本耀司。モードの記録。』(文化出版局、https://www.amazon.co.jp/dp/4579304462/ )
写真集、広告大全的なもの(ビジュアル中心)かと思いきや、インタビューからの抜粋、氏を知る人たちによる人物像、とボリュームたっぷり。情報量が多い。ちょっと落ち着けて、ゆっくり読んでいこう。
(追記)まず「自分用の簡易辞書」をつくるところからはじめているよつな状況。バスル、オート・クチュール、アバンギャルド・クチュール、プリーツ、ダーツ、シーチング、プレタポルテ、、、。
◆今回のまとめ
第2回までを受けた時点での所感まとめ。
・発信しないとフィードバックをもらえない=行動してはじめて得るものがあるコミュニテイである。
・「正解」を当てにいくゲームではなく、「自分の考え」を発信し、指摘されにいくゲームである。
・強制されるわけでなく、サボったから罰則があるわけでもないのに没頭する、不思議な学校である。
以上です。
特に今回は、途中経過の記録としての性格が強く、自分で見返しても読みづらいですね。
最後まで目を通してくださった皆さま、ありがとうございます。
(つづく)