生きることのはなし
結構ガチで昔から考えてきた
おれは、小さい頃から「死」について真剣に考えてきた。
周りと比べると早熟かもしれないと今になって思う。おれは死をただ怖いこと、と概念として捉えていたわけではない。死を、物理的に一人の人間が消えてしまうこと、当事者からすると永遠の深淵の中に身を埋めることと捉えてきた。
普遍の運命
大学で生物化学を学べば学ぶほどに、おれはそれの反発として退廃主義に偏っていった。それは別にわざと体に悪いことしたり、自傷行為を好んでるわけではない。むしろいつまでも健康でいたいとは思っている。
おれは、諸行無常を迎合したのだ。それはどうせ死ぬんだから、というように死を概念として捉えた軽薄なものではない。身近な親友の死を経験したことや、小説の中に没頭した乱読期を経たことによって、死と共に歩んでいくことを決めたのだ。
死と共に人生を歩み、最後は死に覆い尽くされて身動きが取れなくなったままこの世からいなくなってしまおうと決めたのだ。普遍の運命ときちんと対峙して、死を直視してきた。
生と死は共存するから美しいのであり、死への想いが強く、その闇が深ければ深いほど生のエネルギーは燦然と輝くのではないだろうか。
煌びやかに生きることを満喫してる人ほど、死ぬことを強く意識している。
おれの原風景
おれは、小さい頃家の裏庭で、弟と隣の家の年は1個上の親友とよく遊んだ。剣道を始めておれら兄弟が多少忙しくなってからも時間を作って頻繁に遊んだ。
野球をしたり、一緒にゲームをしていた。小学校、中学校が一緒で学校でも会って、家に帰ってきてからも遊んだ。高校は別々で、お互いに部活が忙しくなって遊ぶことは出来なかったが、会う時間が取れないというだけで、心の距離は子供の頃と全く変わっていなかったとおれは思うし、おそらく親友もそう思っている。
高校時代に部活で全国大会に行ったり、大学時代に社会というものを学び、自分の思考のベクトルが外に向かってどんどん大きくなっていっている。しかし、その核にあるもの、おれの原風景はその親友と弟と3人で時間を忘れて遊んでいた瞬間だ。それは、死ぬまで変わりようがない。いや死んでも変わらない。おれという物質ではなく、概念がこの世に存在する以上、おれを形作っている原風景というのは変わりようがないのである。
そんな親友がある日死んだ。おれは18歳で親友は19歳だった。
この出来事は、おれにかなりの衝撃を与えた。今までの人生でこれ以上の衝撃を受けたことはない。両親から告げられたが、その言葉が核弾頭を備えたロケットのように、質量とエネルギーを持っておれの心臓に突き刺さった。そして爆発した。
唖然として、全く現実を受け入れることができなかった。背筋が凍りついて、この世の全ての時間が止まったようであり、寒気がすると共に自分の血が沸騰するほどに熱くなって身体中を駆け巡った。この瞬間の粘り気のあるおぞましさは一生忘れることができないだろう。
この経験から、死というのは本当に身近にあるものなんだなと感じた。より、生きることに強く決意を持たされた経験であり、これはおれに一生つきまとう。
原風景が、そのまま時間がとまってしまった。親友ともう一生遊んだり、ご飯を食べたりすることもできない。心の距離は幼少期のままだし、これ以上縮まることも、離れることもない。
ただ、親友は概念として、おれの中にしっかりと生きている。おれが存在するということは、おれの原体験の中にいる親友が存在するということだ。
さて、おれはどう生きるか
死ぬことについて、おれはきちんと直視して、自分なりに考察を深めてきている。だからと言って、別に死ぬのが怖くなくなっているわけではない。おれは死ぬことを本当に恐れている。
夜、ベッドに入り、明かりを消して目を瞑る。そうすると、自意識が闇の中の深淵に引きずりこまれていく感覚に陥る。このまま、この深淵から出てこられなくなるんじゃないのか。いや今はまだこの状況を客観視できているからそんなことはない。でも死ぬとはきっとこういうことなんだ。この闇の中から抜け出すことができないということなんだ。そして、これは普遍の事実であり、おれにもいつかその時はやってくる、絶対にだ。
こう考えれば、考えるほど思考が無限ループに陥って、心拍数が早くなり、少しパニック状態になる。おれはこんな感じで毎晩うなされている。これは、小さい頃から今でも、おそらく死ぬまでずっと続いていくだろう。
死の恐怖心と癒着している宗教は、とても画期的でクレバーな発明だと思ったりもするが、それについて考察するには今のおれでは知識があまりにも足りないからここで話すのはよそう。
死と対峙して分かったことがある。
それは、宇宙が誕生して、現在おれが生きている今、そしてこれから宇宙が存在し続けていく時間の流れの中で、おれが生きている時間はもとより、地球という惑星で人類が繁栄している時間というのは、とても微細な瞬間に過ぎないということだ。つまり、この世の中に、おれという個体が存在している時間はほぼないに等しく、存在するということの方が、異常であり奇跡であり、エキサイティドな状態であるということだ。
だから、おれはこの世にいない時間の方が長いのであり、基本的にはいないものなのだと認識し直すことにした。いなくなることを恐れるのではなく、今、生を感じられていることに感謝することにした。
さて、おれはどう生きるか。
自分を支えてくれる全ての人々、おれという個性を作った原風景の中にいる親友、そしてこれから出会っていく全ての人たち。みんなをリスペクトして、時には叱咤激励し合いながら、感謝の心を忘れずに今、この瞬間を存分に楽しみ尽くしたいと思う。