拳を振り上げる
大学を卒業し、会社で正社員として働くようになって2ヶ月が経過した。
この2ヶ月たくさんの感じることがあったが、その中でもこれを忘れたら自分はつまんない人間に成り下がるだろうな、退屈な生き方になるだろうなと思うことがある。
逆にこれをやり続けたら私は私自身の生き方を「意外に悪くない」と思えるのだと思う。
それは
拳を振り上げる
ということだ。
もちろん喧嘩をするという意味ではない。
拳を振り上げてできることは3つあると考えている。
一つ目は、親指を上に立てて「いいね」をすること。
自分が好きなもの、感動したもの、共感したもの。
心の底からいいと思ったものに「いいね」を示すことだ。
もちろん周りに合わせていたら意味がない。
思ってもない「いいね」はむしろつまらない毎日への第一歩。
誰かがいいといったからではなく、自分がいいと思うものを、そしてときめく感性を大切にしたい。
二つ目はガッツポーズ。
何かに本気で取り組んだ時に自然とガッツポーズが出ると思う。
誰かに言われた義務感でやることはどれだけ大きなことを成し遂げたとしてもガッツポーズはできない。
反対にたとえ小さなことでも、周りから見てらどうってことないことだとしても自分が心血を注いでやりきったのだとしたらガッツポーズだ。
そして仕事でガッツポーズをするチャンスは多いと思う。
仕事が楽しいに越したことはない。
ただ、どんな仕事であっても楽しいだけなんてことはないはずだ。
楽しいだけだとしたらそれは「うそ」だと思う。
どんなことであっても真剣に向き合っていると大変なことがきっとある。
本当に嫌なら当然やめればいいが、それでもやめたくない、向き合っていたいことがあったとき、その先にはガッツポーズのできる何かがあると信じている。
そして最後。
三つ目は中指を突き立てることだ。
納得できないことがあったときに「うるせぇバカ」と思う気持ち。
何かの主張を押し付けられたときに「キモい」と思う気持ち。
これは本当に大事だと思う。
そこに正しいかどうかなんて関係ない。
直感、感性、そして好き嫌いの方が何倍も大切だ。
私が大切だと感じているならばそれが私にとっては何より大切。
違和感は特に信じたらいいと思っている。
何か違和感を持ったまま、中指を立てずその違和感を無視して物事を進めたときにうまくいった試しがない。
もちろん相手のいってることが正論に聞こえたら、「自分がおかしいのかな」と最初は思うことも多い。
それでも正論ってそれ以上でもそれ以下でもないし、そもそも誰にとっても正しいことなんてありえない。
だったら自分の感性を優先したらいい。
中指を突き立てたくなる衝動こそが自分という人間の芯に近い部分なのではないだろうか。
拳を振り上げるということ。
それはつまり
「いい」と思ったものに素直に「いいね」と言えるのか。
生きていく中でどれだけガッツポーズができるのか。
おかしいと思ったこと、嫌いなことに何回中指を突き立てられるのか。
である。
「いいね」のない生活は色褪せる。
ガッツポーズをしない毎日は退屈だろう。
中指を突き立てない人生はきっと己を見失う。
自分の感覚に自信を持てない時、相手に合わせて流されてしまう。
反対にこれらをやり続けることが自分を大切にできている証拠になるはずだ。
「いいね」のある生活はときめきがあると思う。
ガッツポーズをする毎日は刺激的に違いない。
中指を突き立てまくる人生はきっと爽快だ。
これからも拳を振り上げてわがままに生き続けたい。