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自慢のスパイス使いもUber Eatsのカレーも、幸せ次第

私事になりますが、私は休日、カレーを作ることがあります。

カレールーを使わないのはもちろん、カレー粉やガランマサラなど調合済みのスパイスも使わずに、ホールとパウダーのスパイスを好きなだけ使って調理する、激辛ながら深い味わい。ほうれん草ベースやオイルベースなど、型に拘らず作った一皿が思い通りの味になった時の達成感は、格別です。

スパイスだけでなく、肉や魚介類の素材にも価格に糸目をつけずいいものを使うと、自己評価ながらどこに出しても恥ずかしくないものが出来上がります。これは飲食店のシェフにはなかなかできないアプローチ、原価度外視で味を追求するのはなかなか楽しいものです。

それに原価度外視とはいうものの、それでも大抵の場合は店で食べるよりは安いもの。その一点において、カレー作りはお金がそんなにかからない、実益を兼ねた趣味として、私の休日時間の中でポジショニングを確立しています。

このように捉えると、料理はとてもクリエイティブな営為だと思われます。

最終的なお皿の状態を想定して、材料を揃えてプロセスを組み立てていくその作業は、文章を書いたりや楽器を奏でたりに似ています。

自分が作れば、自身が何かを創り出したカタルシスが得られますし、イケア効果(自分が製作過程に関与したものはより価値が高く感じられる)も相まって成果物である献立から得られる達成感は人を幸せにしてくれそうです。

また、外食やデリバリーで、他人が作った料理をいただくことも、自分以外のクリエーターが創り出した作品に接近することだ、と位置付け、そのお皿に込められた意図や、そのお皿が創られたプロセスを想像してみたりすると、食事の楽しみ方が一つ豊かになりそうですよね。

ところで、本来的、本質的にクリエイティブであり、だからこそ日々の幸福を増やすポテンシャルがある「料理」ですが、これが必ずやらなければならない義務となると一気に苦役の色を帯びがちです。

今ではカレー作りを楽しんでいる私ですが、学生の時分、自炊していたときのことを思い出すと、なるべく手間を避けるために使う鍋や皿の数を極力少なくしていたり、料理も簡単にできることを優先優先していたりしました。玉ねぎをゆっくり炒めればおいしいカレーができる、という程度の知識はありましたが、それを実践することはほぼありませんでした。

つまり当時の私にとっては料理や洗い物が単なるルーティンとなっており、その負荷を軽減する、という原則でこれらに対峙していたのです。
子供の頃、母が毎日の献立を苦労して捻り出していたことなども、ルーティン化した義務からくる大変さの1シーンとして思い出されます。

母も学生時代の私も、その時にUber Eatsのようなサービスがあれば、料理に感じていた負荷感は随分減らすことができただろうな、と思います。

まとめると、料理には(1)人のクリエイティビティを刺激して幸せを増幅する(2)それが義務化・ルーティン化したときにストレスとなるえる、という2つの側面があります。そしてUber Eatsや外食という食事の取り方は、義務感から人を解放しストレスを軽減する、という作用や、それにより料理のクリエイティブな側面に人をフォーカスさせる、という作用が期待でき、日々の幸福を増幅する手段として大いに役に立ちそうです。

であるならば、「有りですか」もなにも、コロナ禍であろうがなかろうが、毎日だろうが月一だろうが、自分が良いと思う形で使えばいいのではないか、というのが私の考えです。

読者の皆さんは、どのようにお考えですか?

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