わたしとして

・理性と感情を切り離すということ
・建前と現実をどちらも受け入れるということ
こうしてわたしはわたしをやり過ごしている。
この2つの「分離」と「信頼」、「許し」がわたしとして生きていく、わたしと相棒とのお約束だと思う。



数年前に比べて、わたしは自分が変わったという自覚がある。
それは周りからも言われることがあるけれど、多分わたしが一番そのことを自覚している。

そう変わったきっかけがなぜだか知らないけれど、今より昔のわたしの方が、わたし自身に苛まれていたように思う。
こうすべきだとわかっているのにそうはならない自分、なれない自分。
理想のこうあるべきという論理と、現実の思い通りにならない感情が自分の中でごちゃ混ぜになって、どうしようもなく濁っていた。


それからしばらく経って、環境が変わって、いつのまにかわたしが手にしていた中で一番大きかったものは、論理と感情 あるいは 理想と現実、建前と本音 を切り離すことだ。
それは自分自身が理想通りにならないことを認めた上にあるけれど、同時に自分自身の本当のところを認めた上にもある。



例えば
お恥ずかしいのだけれど、わたしには不意にネガティブな感情が浮かび上がってきてしまうときがある。
そんなときは、そもそもポジティブでいる方が良いのであってそんなネガティブなことを考えるべきでない
そんなことくらい、往往にしてわかっている。
殊に誰かにどうしてほしい、あるいは自分がどうすればいいといった具体的な行動での解決が図れない場合には、そんなことを考えて気分が勝手に落ち込み、時間を浪費する自分自身に苛立って二重に感情の波に苛まれる。
昔わたしがどうしても自分自身で対処できなかった感情の波は、こうして生じていたのだろうと思う。
わたしはそういう感情が起こることそれ自体やそういう自分が許せなくて
その瞬間はすごく苦しくてどうしようもないし、誰かに頼ることもできなくて一人で泣きそうな感情に覆い隠されていた。


そういう感情の波が起こること、それ自体は今も昔も変わっていない。

けれど今は、ネガティブな感情が生じることそれ自体を
私がコントロールすることはできないのではないかと思っている。
考えたいと思ったわけではなくても嫌なことを思い出してしまうことはあるし、なんとなく・どうしても苛立ってしまう日も、実際にはある。
理想からすればそんな感情すら生じないことがベストなのだけれど、私はそういう感情が生じてしまう自分を、今はある意味許すことにしている。

重要なのはそういう感情の発生ではなくそのあとどうするかで、
ちょっとした余裕さえあれば自分自身の力で一歩一歩不安の元に対処していくことや、そうでなくてもその不安を承知の上で踏みしめていくことができると自分を信じている。
そのために必要なことは、私にとっては少し眠ること、甘いものを食べて温かい飲み物を飲み、明るくなる時間を待ち、人と他愛ないおしゃべりをし、自分の好きなものを膝に抱えて深呼吸をすることだ。
きっとそれぞれの人にそういった、その人専用の解決策があるのだろう。


そういう意味では
私は誰よりも私と付き合う方法を知っている。私研究の第一人者だ。
私のよく知る私はしょうもないことで悩むし、頑張るということが何より苦手だし、よく食べてよく寝ることだけが取り柄のちっぽけな存在だ。
それは私が小さい頃に願った大人の自分とも今の理想の「あるべき」自分ともかけ離れていて、時々息をするだけで気分が悪くなる。

それでも、いくら嫌だといっても
残念ながら私がそういう存在であるということは否定できそうにない。

だから私は私が苦しむことから解放してあげるために、
まずは理想とか置いておいて、「今の自分がこうである/こう感じている」という事実を認めようと思う。
その上でこうあるべきという論理や建前との折り合いを担ってくれるわたしBと、膝を抱えるわたしCと、感情でいっぱいいっぱいになるわたしDとをとりなして、わたしAとして他者の前で振舞うわたしを一緒に作っていく。

それがわたしなりにわたしとうまく付き合う方法で、
必要以上の謙虚さという卑屈さにも、自分自身を認められないが故の他者への攻撃性にも陥らずに
わたしと一緒にわたしを歩んでいく方法なのではないかと
今は思っている。
それが他人ではなくわたしとして生きていうためのとても大切な約束事で、
わたしの相棒と生きて抜いて行くことに繋がっていると今は思うから。


ね、わたしB(たち)?




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とくさ色
読んでくださってありがとうございます。もしもことばを通じて遊んでもらえたのならば、とても嬉しく思います。