なくしもの
「ごめんなさい」「ありがとう」という言葉を、
わたしは多分、いちばん残酷な言葉として使うことができる
他者にとっても、自分にとっても
わたしの身近にいた人、今も身近にいる人は、多分ひとの話を聞くことが得意ではない。
口論になればその人の思っていることが次から次へと、嫌だという感情で結ばれて溢れ出す。
それとこれとは違う話で、とか
あなたがわたしを責めることと同じことをあなたは今しているじゃないかという反論は、その人の熱をさらに高めるだけだと
わたしもさすがに、学習するようになった。
だからかな
ごめんなさいということばをわたしは
もうあなたと話をしたくありません
わかってもらえないとわかったから、せめてふれあいたくありません
という拒絶のことばとしてしばしば用いるようになっていた。
これに気がついたのはごく最近、というより今日のついさっきのことで
ごめんなさいって言ってからさらに責められることに苛立つ自分も、少し不思議だったけどそういうことだったのだろう。
つられて気がついた ありがとうという言葉も、
あなたの気持ちはわかったから、もういいよ
もうたくさんだよ
という話の終わりを目指すことばとして、いつから使い始めたのだろう。
何かの拍子に他者がわたしの触れられたくない傷に触れた時、
わたしの苦手なことに踏み込んだとき
それでも相手に激昂することはできない、
そんな中で逃げるようにその話を終わらせることばとして。
いつのまにかわたしは、ありがとうを使っていた。
ごめんなさいとありがとうは大事だよ
ちゃんと言えるようにしてね
大事にしてね
そう教わったはずのことばは、いつのまにか記号になっていて
わたしの中では偽物になっていた。
わたしはいつのまにか、ごめんなさいもありがとうも失くしていたんだ。
今、電車に揺られながらそんなことに気がついてはっとした。
余裕がなくなると、ことばに気持ちがのらなくなる。
表面的で、冷たいことばは、誰にもとどかないままぽたりぽたりと落ちてしまいそうだ。
せめて、大切な人におくることばには
嘘のないわたしの気持ちを込められないだろうか。
ごめんなさいもありがとうも、他者とのつながりをこれから築いていくためのことばで
けして会話やつながりをおわらせるためのピリオドでは、なかったような気がする。
そういう意味で、大切にしてねと繰り返し繰り返し教わったように思う。
なくしもの、でもまだ近くにあるもの。
ありがとう と ごめんなさい
明日は 気持ちを込めて言えるかな。