ことばの窓越しに
人はことばを用いて思考する。人と繋がるときにもことばの果たす役割は大きい。
そう思っているので、どんなことばを持っているか/どんなことばの感覚を持っているかというその人の「ことば」で相手をみているところがある。
先日人と話していて気がついたのだけれど、わたしは今言葉に対する軸を大きく分けて3種類持っている。
それはおそらく、
・ことばの綺麗さ
・ことばの正確さ
・ことばの柔らかさ
の3つだ。
1つ目のことばの綺麗さは、わたしが昔から気にしていたもの、かつ以前のnoteでも書いたものだ。ことばの組み合わせやいわゆる日本語としてある程度意味の通じる運用であるかどうかが、言語としてのことばの美しさや正確さといった観点と結びついている。
親和性の強いことば同士を用いていれば伝わりやすいし、ちょっと意外な取り合わせもことばの新たな魅力を開拓する。
その上でやはり伝えるための手段だとすれば、違和感が強すぎたり読みづらいような文章・表現ではない方が好ましく感じる場面が多いのだと思う。
2つ目のことばの正確さは、私の中では真正性とも言い換えられる。この観点では、ことばにどんな定義を与え、他のことばとの区別や文脈の中でどのように扱うかということに要点がある。
やや細かい例を挙げると、子どもと子供、児童の使い分けを意識的に行っているか否か。あるいはもっと日常的な例として、ある人を「女性」というのか「少女」というのか「人」というのか「美人」というのか、あるいは「OL」と呼ぶのか。
そのことばを選ぶことによって付随する情報やイメージが、その時々に必要十分であるかどうかが気になってしまう。
3つ目の言葉の柔らかさは、ことばにどんな感情をのせ、相手に届けるかと言う点に着目している。この点で他の2点よりも発信ではなく、受信側に目が向いた観点かもしれない。
例えば相手とぶつかってしまったとき。
なんでぶつかるの、と責めるのか
ぶつかってしまってごめん、と謝るのか
ごめん気が合いすぎた、と笑うのか。
同じ責めるのでも
なんでいつもこんなことができないの、というのか
今日はこれをやった方がいいみたいよ、というのか。
余計な一言が付いたり、あったら優しい一言が足りなかったりするだけで
中身は同じことをいっていても、全然印象が異なってしまう。
どうしてそんな言い方するんだろうと思うことも、すごく素敵な言い方だなと思うこともある。
ことばが厳しいだけで本当は優しい、とか
シャープなコミュニケーションなので(無駄がある種削ぎ落とされている)…とかいう言い方をされることもあるけれど、
ことばはまちがいなく人に手渡すじぶんのこころなのだから、どんなときであっても大切に、丁寧にしていきたいと強く自戒を込めて思っているわたしがいる。
それは同時に、自分の考え方を整理していくことにもつながっている。
人はことばの窓から世界をみる。
いろいろなかたちの窓があれば世界がそれだけたくさんのかたちに見え、
美しいガラスの色や別の方角の窓を通せば、また別の景色が見えるのだろう。
自分の外の他者とつながる窓も、もっと自由に選べたらその先に今は見えないものが待っているのかもしれない。
ことばの窓を開ける時、その先にどれだけ多くの、どんな景色を描くことができるだろうか。