おはなし


ある程度以上おとななんだから、
自分の機嫌は自分でとらなきゃいけないことくらい、わかってる。
でも単純に生きているだけで色んなことにぶつかる日々の中で、
おはなしができる/はなせるということに、
最近ほっとすることが多い。

おはなしができる、というのは結構難しくて
・自分の思っていることを繕わずに発することができるということ
 それは自分の言葉をきちんと受け止めて、頭から否定するのでも無批判に肯定するのでもなく、
 さりとて相手の話すという行為にただ単にお付き合いするのでなく心と体ごと耳を傾けてもらえることが前提となっているし、
 論理だけが正解とされるのではなく、整理されていない曖昧さや自分の中のあまり綺麗でない感情のモヤモヤもそれはそれとして受け入れてもらえること を含んでいる。
同時に、
・話す話題を選ばない
というのも、すごく難しいけれど話そうと思えるための大きな要素だ。
話していて、「ああこれはわかってもらえないな」と思うような時は話そうとしたこと自体を後悔してしまうし、
話題は移り変わったり交差したりしていくので、特定のことに絞って自分を開いていこうとすれば、そのことの方に気をつかって疲れてしまう。

逆に言えば、
普段わたしは意識的にも無意識的にも相手によって話題や語り方を選んでいると思うし、自分も話題や聞き方に基づいて話相手に選ばれたり、選ばれなかったりしてきたなと思う。
わたしが話す時は自分の内的な感覚や状況をどれだけ明かすかも考えるし、
論理が先行する相手には感情的な話や感覚的な話をわざわざすることは少なく、冷静な意見が欲しい時には感情が先行する相手に話をすることはあまりない。
それは相手にとっても自分にとっても話しやすい話題や話し方を選んでいるということで、これが間違っているとは思わないけれど
本当のところは、前からそういった選別を少しさみしく感じていたような気もする。
そして今自分にたまたま、話をすることがすごくできる人がいてくれていることで、もっと話ができることがあることに気がついている。
もちろんそれが稀有なことなんだとはっとするし、自分が支えてもらっていることにほっとしてもいるけれど、同時におはなしをすることが実際に可能であるということに勇気づけられている。


「おはなしができる」ことはとても難しい。
ふとした話をふとした時にしたいと思える相手がいてくれること、
そういう相手になれることはとても難しいなと思う。


でも、
話をうまく聞き取るのが苦手であっても
話の内容が自分のわからない・共感できない内容であっても
相手のことを知りたいという気持ちを持って正面から向き合う姿勢を持っていたい。
相手がもし自分の話を聞いてくれてもいいなという気持ちがある時には、
勝手に諦めずに、相手に届くように話しかけることを続けていきたい。

そうやって、朝のコーヒーや夜のお疲れ様の1杯のように、
もう少し身近な形でお話をすることがありふれたら素敵なんじゃないかなと思っている。
そんな日常を理想と感じたので、今日はそんなわたしの目標と、ちょっとした決意表明。

話ができる距離にいること、話ができる手段があること。
それは案外、すでに手にしているように思っている。
人といろんなお話をする/できることも当たり前のことになるかもしれない。
そうだったらいいな。




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とくさ色
読んでくださってありがとうございます。もしもことばを通じて遊んでもらえたのならば、とても嬉しく思います。