わたしB
鏡を覗いて自分自身と思いがけず目があうと、わたしはびっくりする。
そういう感覚を他の人も持っているだろうか。
ほかの方々がどうなのか人と話をしたことがないのだけれど、わたしはいつも別のわたしを抱え、自分で自分を覗き込みながら生きている。
わたしの中にはつねにわたしがいて、わたしの行動や思考を眺めている。
そんな感覚を、わたしは抱いて暮らしている。
わたしのきもちはしばしば思うようにならなくて、その人がそんな意図を込めていないとわかっているのに、誰かのことばになぜかどうしようもなく傷ついてしまうこともある。
苛立つようなことでないとわかっているのに、思い通りにいかない他者に当たってしまうこともある。
そんな時、そういった言葉と感情を反芻して落ち込んでいくわたしを
こちらのわたしがけらけら指差して爆笑し、あちらのわたしは呆れたような顔でいつものことだと少し離れたところから眺めている。
何か嬉しいことがあって一人でにやけている時、こちらのわたしは椅子に座って本を読みながらほんの少し口元が緩んでいる。一方あちらのわたしはもはや変てこな踊りを全身で表現し踊り狂っている。
わたしはそんなわたしたちを横目で見つけて、さらに笑みを深くする。
そんな日常を、わたしは過ごしている。
こんな風にわたしの中にわたしがたくさんいるのはおそらく、わたしがなんとかして変わりたいと思ってきた結果なのかもしれない。
わたしはもともとあまりわたし自身のことが好きではない。
わたしが嫌いで変えたいと願った、卑屈なわたしや臆病なわたし、自分勝手なわたしたちは消えたわけではないし、乗り越えられたわけでもない。
表に出ている、自分という意識を持ったこのわたしをわたしAとすれば、わたしBやわたしCとなる彼女たちはかつて、あるいは今でも時々わたしの中心となるわたしで、わたしがわたしAとあえて切り離した自己の一部にすぎない。
だからいつもわたしとともにあってわたしを眺めているし、たまに出てきてはわたしのコントロールを奪っていく。
そして人を傷つける言葉を言ってしまったりすることもあれば、自分自身を否定することばをわたしの中にたくさん溜めていくこともある。
わたしがわたしの中にたくさんのわたしを抱えているというのは自分を客観的に見られているということではけしてなく、このように自分自身がままならないまま分裂した自己を持て余しているということだ。
それはある意味ではひどく混乱し、また疲れることでもある。
けれど、わたしはわたしBやC、Dの存在にいつも救われていることにも気がついている。
見た目も中身も自分のことがひどく嫌いで悲痛な思いを抱えていたとき、
大切な人から離れてしまったとき、自分の目標としてきたものが叶わないと思い知ったとき
あのとき、わたしはわたしたちに支えられていた。
時々訪れるどうしても不安な気持ちが消えない夜には、わたしは不安になるわたしCを抱きしめながら、わたしみんなで空を眺めて陽気な歌を歌った。
傍目には1人で、感覚としてはたくさんのわたしで自分の状況を笑い飛ばし、次の日に立ち向かう元気をもらってきた。
わたしはつよい人間ではないし、多くの人のあたたかさに救ってもらって助けてもらって今ここにいる。
そういった人たちを見て、わたしのなかのわたしBやCやDは学び、あの人たちのようになりたいと願う小さなわたしAを励ましてくれる。
わたしAであるわたしは相変わらずいい人にはなれないし、できないことばかりで嫌になることの方が多い。
でも、そうやって自分を好きになれないなりにわたしたちとしていきていくことが、今わたしにできる生き方の1つなのかもしれないと思っている。
わたしのなかのたくさんのわたし、いつもありがとう。
新年度も新しい時代も、どうぞよろしく。