私論:現代4コマ展【#現代4コマ】
※この記事では現代4コマについて解説しています。
序の序
この記事は作家「いととと」をまとめる「いとペディア」というWikiサイトに参加していた筆者が、2023年6月に同Wiki内に書いた「私論」です。
それに、画像を添えたり、ごく一部を外部サイトとして読みやすいように工夫しています。
「いとペディア」はFandomというWiki設置サイトで作られており、今でも更新されています。
関連して、私論という語彙は、世界最大のUGC百科事典サイトであるWikipedia内のコミュニティから拾ってきたという文脈があります。
2023年6月20日から25日にかけ、『現代4コマ展』というのがありました。他の展示と区別するなら、DMでは『いとととの現代4コマ展』とか、ギャラリーでは『いととと個展 現代4コマ展』としています。
現代4コマを取り扱った史上初の展覧会です。これは東京銀座で開催され、実に画期的な試みであったといえ、トウソクジン氏、マサヤン氏などの後にデビューを果たす現代4コマ作家に顕著な影響を与えました。
ちょうどこの頃は、僕のTwitterアカウントが凍結され「んぷとら」になったばかりの頃であり、しかもそのタイミングでいとととが銀座のギャラリーで初めての展覧会を開いたということで。
僕史上もっとも「現代4コマ」の潮流から離れた視点から、現代4コマについて語った文章であったと今では思います。そもそも、これを書いた自我は、現代4コマ作家「んぷとら」ではなくてネットユーザー「トランプおうwz」ですからね。今ほど割り切った論調で無いことがわかります。
ただ、僕は会期中二度この展示を訪れています。
さて、ここに共有事項があります。
第一に、文中の「現代4コマ展」はすべて、「2023年6月に開催された〝いとととの現代4コマ展〟」に対する形容詞です。
この記事を書いた頃には「現代4コマ展」が唯一無二のものでした。史上初だったのです。このあと、二度三度と開催されることになるのを僕は予見していませんでした。そこのところを頼みますというのが一つ。
第二に、現代4コマという形容詞やそれに対する解釈、捉え方はすべて、過去のものであるという前提をもってください。
現代4コマのあり方は変容し続けています。現代4コマは今や、鏡です。
何度も色々な価値観をもった人が取り扱い、概念を研鑽したり、自己を重ねることで、現代4コマ自身が移ろっているのです。
この本文中の「現代4コマ」は、「現代4コマ」という言葉が生まれて半年、「現代4コマ批評」が視力によって銘打たれてから1ヶ月というような、現代4コマのまだ青々しい時期の解釈によって行われており、今のものと異なる考えが含まれている、と考えておいてください。この記事は過去のものなのです。
そんなところを踏まえて読んでいただければと思っています。メタ的に書かれた記事を更にメタ的に読む、という体験がこれによって出来ることでしょう。それこそ一度「投稿」されることで死んだ記事が、再び息を吐くに等しいことだと思うのです。
それではどうぞ。
現代4コマ展とはなんだったのか。
序
トランプおうwzと申します。Twitterが凍結されて萎えに萎えに萎えに萎えに萎えに萎えてるけどなんとか生きています。
突然ですが、ウェブ広告についてどう思いますか?この広告がどんどん増加の一途を辿るFandomというサイトにしてもそうなんですが、「広告が表示される」ことに関して優先するUI設計は多くっても、「広告を押した後」の体験に対するUX設計はまるで行き届いていないと私は思ってます。
押した後、たとえば新しいタブが開く。アプリだと、アプリが中断して別のブラウザが開いたりするじゃないですか。
それがオンラインゲームとかだと、対戦やマルチプレイ中の場合、そのプレイを中断するということになってしまう。
「表示されたかどうかで収益を計算する」というようなビジネス形態などのせいか、多くのサービスが広告を押した後のことを全く考えてないんですよ。
広告が押されない前提で作り手側も考えちゃってる。それがウェブ広告が嫌われてる原因だと思うんです。
広告を押してもアプリの進行を邪魔しないとか、ページの表示はそのままにちょっと情報の表示が増えるとか、そういう共存して気軽に押せるウェブ広告にこそ、ウェブ広告としての価値があるんじゃないでしょうか。
現代4コマ
現代4コマという概念がいとととによって作られてから早々久しく思う。大体、この概念の定義のなかった頃から、彼の4コマはなんかちがっていた。なんというか、信じられない適当さ、軽薄さがあった。貶してるわけじゃない。ガロとかにも現れていたし、私製本、同人誌も数えれば枚挙に遑がないだろう。いとととの作品というのに至っても、彼の生き方や作品への向き合い方がそのまま伝わってくるような感じがある。今から言う例えは言い過ぎなのだが、サイコパスがやる人形劇とさして変わりない。
彼の精神性、性分みたいなのは実は最初から変わってない。何かの概念の「皮をかぶる」ことで彼の作品は成り立ってきた。これまでが「4コマの皮をかぶっていた」、このごろが「現代4コマの皮をかぶっている」。見え方が違っても根っこの部分が同じなことは全く違いない。たとえば、その根っこが移り気である、とか?
新設された現代4コマという概念は成り立ちさながらに愉快犯が多い。他ならぬいとととがその第一人者だし、それに乗っかる人々も、一捻りして物事を考えたい玄人が多い。愉快犯の中に私トランプおうwzもいて、仰々しい説明や異なる解釈の切り口で作品を取り上げることが多々あった。まあ、その流れの中に色々な人がいて、こういうWikiみたいなものもできているし、BBSもあるし、まとめサイトもある。MAD動画もある。
展示っつーのもそれに連なる面白概念である。これまでどこか遠くにあったのが、偉そうにふんぞり返りながら近くに寄ってくるのである※1。そういう面白さのイメージは脈々と受け継がれている。アーティストの鈴木康広が船の航跡をチャックに見立ててファスナーの形のクルーザーを作ったのだが、以来彼は「豪華客船版を作る」って構想をしばしば語っている。そういう「大げさに実体を伴わせる」っていうことには、その実体に各人が感ずる規模感を、極端な例から再確認するという作業が同居してるんだと思う。「シリーズ〈器〉」という私の現代4コマシリーズだって、最初から「この作品が展示されたら……」なんていう構想と共にあった。
現代4コマ展という記事は、まず現代4コマwikiではなくいとペディアに記事が立てられている。順序とか、意味とか、そういうものは特にない。とにかく、先にこっちに立ったという歴史的事実だけがある。
いとととの展示
いとととの展示は東京銀座の小さなギャラリーが声をかけてきて、それで行われた。外に扉やガスメーターが並ぶ雑居ビル、その一室が現代4コマの王道つどう現代4コマ最初のメッカとなった。
入り口を入り、左手から右回りにみるのが順序らしい。撮影SNS掲載OKの4コマを横目に、まずはポスターにもなってたベートーヴェンが運命を思いついた時の4コマが出迎える。運命のイントロ、それを思いついた瞬間なのだから、イントロのイントロ。そこから何個かの作品を挟んで割とすぐに物販コーナーがあって、「時間を無駄にするのが好き」やよくわからない差し入れが出迎える。
真ん中に置かれた椅子は意味あり気に「純粋4コマ主義」の散らばった額装の方面を向いており、たくさんの作品が展開されていく。
スケールは拡がっては窄まるのを繰り返し、国旗4コマ、どこかでみたような現代アートみてえな4コマなどを見させられたあと、
卒業式、非常口、国歌斉唱と終わりを感じさせる展開で出口へ向かう。すると先ほどと景色が少し変わっていることに気づく。
入り口に並ぶガラスケースも縦4列なものだから4コマが6個並んでいる、と感じられたり、部屋にあるコンセントを見て充電の4コマが至る所にある、と感じたり。そして、外に出ると非常口のマークが上にあって、さっきの4コマがフラッシュバックする。そんなように、展示空間を出た頃には、鑑賞者の脳内は4コマ脳になっている。4個連続するものとか、4コマのものに目が行くようになっているのだ。
4コマ症候群
テトリス効果(テトリス症候群)というのが思い出される。脳が何かを何かに結びつけるのに必死になって、その運動に慣れた頃に外に出ると関係のないのにその運動を継続してしまう。それが起こる。現代4コマに物理的に囲まれることで通常以上に脳の4コマ野の刺激が行われ、能動的に4コマ性の発露を目にしようとしてしまう。
これは現代4コマの、脳内補完を4コマの枠組みの中で促す試みにもつながる現象。と、こっちで言ってもピンとこないだろうか。適宜現代4コマwikiとか、Twitterのbotやハッシュタグを見ればなんとなくわかると思う。
迂遠な表現によってある概念を表し、それを当てさせる……というように解釈すると、謎解きもこれに通じるのだから、現代4コマが謎解き界隈の一部にウケているという話にも頷けたりする。謎解きも、ある程度謎解きをやって脳を謎解き脳にしていないとまるで解けない問題があったりするし、それも共通するものだと思う。
で、現代4コマ展ってなんだったの
現代4コマ展がいとととの創作の中で一つ突出したことは間違いない。これまで自己完結してしまったり、半ばで分解したコンテンツの多かった中で展示にこぎつけた本案件ははっきり言って快挙だ。この展示のために声をかけてきた美術紫水の展示費用は6万円くらいだ。場所を選べば2万円とかに収まったりするので、まんまとカモにされたような感も……なくはないが、それでも、ギャラリーが声をかけたことで実現したことは事実であって、そのことについて我々は感謝こそすれ、非難する立場にはない。
現代4コマとは人々が能動的に考える4コマだ。今回の展示、いとととのワンマンに終わることはなく、来場者が勝手に4コマを追加していったらしい。それこそが現代4コマのあるべき姿であるし、その規範、模範が示されたということで私は評価しようと思っている。
現代4コマはいととと、現代に生きる若者たちの幻覚、集団意識だ。現代4コマ展は現代4コマの希望ではなかったけれども——現代4コマはそもそも希望を有さないのだが——、現代4コマ展は現代4コマの可能性だった。何も考えていないことをもとに何かを考える。その成れの果てがそこにはあった。
結
中途半端な睡眠のリズムと日々のワークの狭間にいて、私は疲弊しています。この展示に余計に時間を使って、ますます窮地にいる。その滅茶苦茶になった状況をもってこの文章を書いて、その内容の辻褄や脈絡が噛み合っている気が如何にもこうにもしないけれども、そのまま投稿することに決めています。
ウェブ広告は誰かのちょっとの役には立つけれども、役に立とうという努力が足らない。ウェブ広告が金儲けのための道具以上の意味を開発者の中に持たされておらず、半端な実装に満足してしまいます。広告出稿する側のモラルも悪化し、広告を閉じるボタンは押しづらくされ、時間は長引かされ、何段構えにもされていって、邪魔さをパワーアップさせている。
4コマも同じです。4コマの中身が先鋭化する一方で、当たり前となった4コマの外側、4コマそのものの形式に目を向けることはまず無く、その扱いが今適切かどうか、という見極めが足りているか、という問いに自信を持って答えることはすぐには出来ないんじゃないでしょうか。
政治、マスメディア、争い、混乱を極めるAIの技術などにだって通じます。文明的な発展のために、目的と手段、手段と目的は見誤りたくないものです。
脚注
※1……会えるアイドル、AKB48。その48という数字はちょうど4で割っても12という自然数になる。
初出:2023年6月28日 いとペディア 利用者名前空間サブページ