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概評 純粋4コマ主義【#現代4コマ】


あなたは、自分を主役だと思う?あるいは、主役になりたいと思う?



※この記事では現代4コマについて解説しています。
※この記事は美術紫水のかつて運営していたウェブメディア「ひとのきもち」に、2023年12月に掲載されていた文章の再掲となります。



はしがき

生活を送る上でもはや前提としているものが、とてもたくさんある。

目で感じとる光や色、言葉やそれを司る音、文字、

重力があって踏みしめることのできる地面、

本に使われている紙、音を電子的に発することのできるスピーカー、

あらゆる場面に使われている液晶モニターなどの、

技術的なところでも、もっと原始的なものでも、

私たち人間は、そういう「前提」をもって生きている。

そして同時に、改まってそれを俯瞰的に眺望するのも、

どうやらおもしろいらしい。


純粋4コマ主義という提案

純粋な4コマの主義などというよくわからない日本語がある。純粋な4コマとは何ぞや、というところだ。4コマといえば漫画の形態の一つとして語られるものだし、何か形式ばった、保守的な……例えば藤子不二雄とか、手塚治虫くらいまで遡った漫画表現とかそういうもので想像する人もいるかもしれないけど、これはもっと根本的な話らしいんだ。

4コマの枠内に何も描かれていない純粋な空間だけを見せることで、視覚的な空間の演出を極限まで追求する運動。

枠内に何も描かれていない状態の4コマだけが真の4コマであり、それ以外は純粋な美しさを持たないとされる。

また、純粋4コマ主義では、4つのコマが縦に並んだオーソドックスな形式の4コマのみを4コマと認めている。

現代4コマwiki

以上の文は現代4コマWikiに掲載の「純粋4コマ主義」記事から引用した定義で、つまり純粋4コマ主義者は、まさしく何のストーリーも図もない、4つの横に長い長方形のつらなりを貪るように我々に指し示してる。

4コマと聞いて「何かその中に絵や文字、ストーリーなどの内容が描かれている」という前提に立っているような連中に対して、それは4コマではない、4コマとはこの外枠のことだ、目を覚ませ、という皮肉めいた指摘が、この定義には内包されているみたいだね。

今まで我々はこのつらなりを見て——ではなく、正確にはこのつらなりに描写された何かを見て笑い、感動し、感心、呼応してきたけど、改めてこれ一つ出されて、どうだろ。

ふりかけもカレーのルウもかかっていない、梅干しのひとつもないただ真っ白な白米を出されて、どうやって味わうか。それしかないというとき、どうにかしてそれを飲み込む努力をすることはないかな。やれ温もりと風味がよいとか、意味をつけて味わう人も、水や醤油でさっさと掻っ込む人も千差万別だろうが、とにかく何らかの方法で飲み込まされる。

飲み込まされてアァなんと無味なのかと感じる一方で、しかし意外とそれが甚だ悪いものでもない、という感情になることだってあるじゃないか。それが、純粋4コマに対する美意識であり、イズムなのだ。ムズイ。

そういえば、この概念は現代4コマという遊びの中に生じた話だったりするんだけど、まあ、そういうコンテクストを説明したところで、下地を前に置く純粋4コマの概念にはてんで関係がないので、ここでは省いておくよ。


純粋な底面を賛美するはたらき

この与太が与太話で終わらないわけを論じていこうかというところだけど、4コマという言葉を何気なく使っている日本人ないし人類にとって、4コマという概念は前提だよね。すなわち、キャンバスのような役割をする4つの区画を枠などで表現したもののことを、あえて「4コマ」とくくり付けて、その上に色んなものごとを描写する。……いや、前後関係が逆か。ものごとの描写があって、それを時系列なのか区分なのか、4つに分けて、それを仕切ったのが4コマとなる。

順番的には、4コマ〇〇という形で物事を分解したときに生まれる付加的な概念パンを焼いて生じる「みみ」のような部分が、本来4コマという存在なんだよ。たけのこを茹でて出る「アク」とでもいえるだろう。取り払っても全く問題がないどころか、存在感があった方がノイズになる場合さえ。でも、事実としてそれは背景として、媒体として溶け込んでる。ない白紙が存在してしまってる。仮想のメディアとして、それが4コマ〇〇の背景に存在してる。

人々は「本を読んでいる」などと言ってるが、実際に読んでるのは「本に印刷されている内容」だ。「活字を読んでいる」のではなく「活字で組まれた文章を読んでいる」、4コマも然り……しかし、その形質自体に価値がないかというと、そうでもない場合があるという話で。
ただ、それを尊ばせるのは時間がかかるし、即時的にはリスクが伴う。便器を出品しようとして拒絶された人もいるし。


メディア芸術

「レディメイド」だの「メディアアート」だの、メディアの媒体そのものに目をやって、単純な対象を作品として昇華させようっていう動きには色々ある。ヴァルター・ベンヤミンは映画とか写真などの技術を伴うメディアにその始まりを訴えたけど、実際にはもっと普遍的な例もあって、例えば本。さっき「本を読んでる」のではなく「本に書かれた内容を読んでる」んだ、とか語ったよね。

2015年に国立国会図書館に大量に納書されたことで物議を醸したのが知られる、アレクサンドル・ミャスコフスキー著・りすの書房刊行の「亞書」という書籍群は、解読不能の文字サラダが何十巻もの分厚く重厚な装丁の本に記述されてた。
これに公的資金を投じさせたので「りすの書房」は言葉や本の理解者から糾弾され逃げるように姿を消したけれども、異星から来た何も地球の言語を知らない宇宙人から見たら、通常の言語で書かれた書籍もあの書籍群も似たようなもので、見分けなどつかないよね。

もう少し「まっとう・・・・な作品」を挙げるなら、音を主軸としたアーティスト・藤本由紀夫の「TURN OVER」という作品は、クソデカい白紙の「本」なんだ。
ただそれだけなら「亞書」と同じような評価を受けかねないところだけど、この「本」はめくる時の音が良い紙というのを厳選して製本しているので、めくる音を楽しむことができ、内容ではなく「本」そのものを楽しませるにはどうしたらいいのかを頑張っているわけで、出しっぱなしに終わっていないのが偉業じゃないかと思う。

そういった媒介の手法、状況の設定次第で、如何様にも異化できるんじゃないかってことがわかる。

あ、今「いか」が4コマ分あった。

まあ、手をかけずに「4コマ」そのものを見せる行為は、今挙げた例以上に何も手をかけていない蛮行なんだけど。


画面で起きる「再発見」

じゃあ、素朴な事例として、初期映画というのを紹介しよう。映像というのが初めて登場した最初の10年ほどに存在し、かなり近年に再発見されてそう呼ばれるようになった概念だ。ストーリーなどなく、ただ日常的な風景を切り取ったいわばホームビデオのような何かなんだけど、確かに初期に「映画」の名を張っていて、観客を動員していたんだ。

どうも、椅子に座って一つの窓のような画面で物を見るのが初めてだった連中にとって、その画面の中で絵が動くだけでも斬新で面白かったようで、それまで気にも留めていなかった風になびく草葉の動きにさえも、面白さを再発見することになったらしい。

例えば、以下の映画は機関車が来るのを眺めるだけの映画だけど、それが画面に収まっているだけで、違う見方になるっていう考えが、「映像の動く画面」が初めて現れた時には顕著だったみたい。

そこにストーリーなど何にもない。映像としての、動く記録。ただ画面の中で人がワンカットで写って、風などと一緒に動いているその映像をみて、沢山の観衆がその写っている物事に純粋に熱をあげ、愉しんだのだ。これは、普段溶け込んでいた風景を新しい感覚で確認する体験だったといえる。

さっきの映画なんて、4コマにまとめるとこれでしかないのよ。

ずっと同じものを写して、映画ですなんて言い張ってるけど、画面として改めて出されるとちゃんと見ちゃうじゃない。奥行きとか感じ出しちゃう。

人間の感性なんて、そんな儚い繊細なものなんだよ。案外。


同じ体験などない

もっと伝統的で普遍的な概念にも同じことがいえる。うん、それが風景画。普段の生活では背景でしかない街並みや自然だって、画面の中に収まるだけで「作品」になってしまうんだよね。
無造作にそれを主役に据えた時、そうでなくても、それが「良く」見えるかどうかは、鑑賞者の感性、主観次第でしかなかったり。

あー、文字だってそうだね。書道とか、普通は文章を表すだけの文字だけど、それだけを大画面に提示されたら、その人の書きぶり・・・・とかを見出す。

結局、同じようなものの中に生じる、ちょっとの変化、違いが面白いんだ。

禅語に「行雲流水」といって、雲も川も同じ概念なれど一度として同じ流れはなく、常に移り変わる存在であることを説いてる。鑑賞者だって、高揚してたり、落ち込んでいたり、暑さにあえいでいたり、寒さに凍えていたり、立っていたり座っていたり、逆立ちしてたり、常に状態は違う

したがって、違う状態で同じ4コマを見たとして、それが「全く同じ体験」になることなどない

純粋4コマというようなある一つの図象を、単純で、常に同じ、定量的なものとみなすことこそ、アンリアルなんだ。

あなたにとってのリアルは、物象ではなく、あなたの体験した主観だけが担保する。
その体験が、美術なんだ。


あとがき

美術は、あるかもしれない可能性を切り取って、
具現化して提示するという生産行為だ。

そして、全ての場面は、美術の対象となりうる。
それは主観も含んでのこと。

例えばテトリスをやった後、
隙間がテトリミノを入れ込む隙間に見えたことはないか?

その場のノリや状況で、
不意に脇役が主役になることなんていうのも
実は普遍的な現象で。

あなたは主役ですか?主役になりたい?

なりたいなら、そうなるようにお膳立てするのだ。

あなたが定義した時点で、
あなたは新しい「主役」を見出すことができる。



初出:2023年12月6日 美術紫水『ひとのきもち』(廃刊)


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