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元自衛官の物語【高校2年生編】

この物語は僕が少年時代から自衛隊を辞めて、成功するまでの道のりの物語になります。
※画像は陸上自衛隊HPより引用

アルバイト2

 高校2年生になると、僕は土日のアルバイトを続けることにしました。朝から晩まで働き、時給は890円。1日でほぼ1万円稼ぎ、それが月に8回も繰り返されるので、約8万円が僕の手元に入りました。高校生にとっては十分すぎるほどの額です。そのお金で、僕は念願のスノーボードを手に入れました。しかし、土日にアルバイトをしていると、せっかくのシーズン中の学校の休みにスキー場に行けないという事態に直面したのです。このままではせっかくのスノーボードが無駄になってしまう。そう考えた僕は、土日を自由に使えるようにするため、平日のアルバイトを探し始めました。2年生の夏前には、土日のバイトを辞め、シーズン中はバイトをしないでスノーボードに専念するために、平日のアルバイトを始める決意をしました。
 その結果、平日は学校が終わってからの放課後にバイトをする生活に突入しました。学校の帰り道沿いにあるバイト先を見つけるのが理想でしたが、僕の田舎では夜遅くまで開店しているお店は限られていました。放課後の17時から働ける場所は少なく、飲食店も選択肢には入らなかったのです。結局、モスバーガーが好きでモスバーガーで働きたかったものの、地元には1店舗しかなく、しかも帰り道から遠い場所にありました。マクドナルドも隣町にあり遠かったため、帰り道にあったDMハンバーガーで働くことになりました。
 平日のバイトは17時から20時半までの約3時間。時給は750円程度で、1日2000円、週5日働いて約1万円が手に入りました。これを1ヶ月続けると4万円程度になり、土日のバイトを合わせると月に12万円近く稼ぐことができました。そのため、2年生を迎える頃には、部活や道場への通いも次第に疎遠になり、僕の生活はアルバイト中心になっていきました。学校生活の優先順位は、1位アルバイト、2位アルバイト、そして3位もアルバイト。まさに、アルバイトが生活の中心になっていったのです。


学校生活2

 高校2年生になると、僕の学校生活は大きく変わりました。1年生の頃は、工業実習が週に2回、火曜日と金曜日に行われていましたが、2年生からは週3回に増え、月曜日、水曜日、金曜日に実習が組まれました。特に月曜日と水曜日は、実際に工場での作業がメインで、金曜日は製図室で図面を書く一日でした。
 実習内容もより高度になり、1年生の時には鋳造・鍛造のやり方や旋盤を使って単純なネジを作る基礎的な作業が中心だったのに対し、2年生では本格的な鋳造や鍛造といった技術を学び始めました。鋳造では、アルミニウムや鉄を高温で溶かし、砂で作られた鋳型に流し込んで形を作ります。この技術は、最初の鋳型作りで結果がほぼ決まるため、集中力と精度が求められ、緊張感のある作業でした。
 鍛造の実習では、30センチほどの鉄の棒をナイフの形に鍛え上げる課題が与えられました。工場にある炉でコークスを燃焼させ、鉄の棒を約1200度まで熱します。赤から黄色に変色する頃合いを見計らって鉄を取り出し、ハンマーで叩いてナイフの形にしていくこの作業は、特に夏の暑い日には非常に過酷でした。しかし、自分の手で一つの道具を形作るという経験は、何ものにも代えがたい喜びを僕にもたらしました。
 また、この年から溶接技術も本格的に学び始めました。アーク溶接やガス溶接の基礎を習得し、L字鋼の接合などの課題をこなしていくうちに、次第に自信がついてきました。溶接は地味に見える作業ですが、物をしっかりと作り上げるためには欠かせない技術であり、その重要性を身をもって感じるようになりました。
 さらに、マシニングセンターを使った実習では、プログラミングを駆使してアルミニウムの板に模様を彫り込んだり、部品を切り出したりする作業も経験しました。冷房の効いた部屋で行うこの作業は、暑い工場での作業とは違い、快適さを感じられる時間でもありました。これらの実習を通じて、1年生の時には見えなかった「ものづくり」の奥深さと楽しさが、僕にとっての学校生活の大きな魅力となっていきました。
 
 工業高校の授業の中では「ポケコン」と呼ばれる小型コンピュータが使われます。ポケコンは、工業系の計算を行うためのツールとして全員が購入を義務付けられていました。クラスの中にはコンピュータが得意な友人もいて、彼はポケコンにポーカーゲームのプログラムを組み込み、授業中にこっそりポーカーを楽しむ姿が見られるようになりました。僕もこのプログラムをもらい授業中にこっそりと楽しんでいました。
さらに、ポケコンにはカタカナで文字が打ち込める機能もありました。そのため、ポケコンでの計算を必要とするテストでは、友人たちと一緒に答えを打ち込んでおき、テストを簡単にクリアするというちょっとした裏技も実行していました。こうした遊び心を持ちながらも、ポケコンを使ったプログラミングや計算は、僕たちにとって新しい学びの形であり、技術の進歩を実感することができました。
 このように、工業実習とポケコンを使った授業が組み合わさることで、僕の学校生活はますます充実したものになっていきました。ものづくりの楽しさと技術の進歩に触れることで、僕の興味と関心はさらに深まっていったのです。

 1週間の半分が工業実習になってくると、朝から作業服で自転車通学するようになりました。これにより、制服をあまり着ないようになり、作業服での通学が非常に楽になりました。1年生の時は学ランで通学し、学校で作業服に着替える必要がありましたが、先輩たちに目をつけられることを恐れて作業服での通学は避けていました。
先輩たちの作業服の上衣にはロック風やストリートアート風のデザインがペイントされており、憧れていました。僕も同級生と一緒に作業服に絵を描くようになり、その作業服を着て通学するのを、その頃はかっこいいと思っていました。学校生活は本当に楽しく、授業もほとんどが工業系のもので、国語や数学などの5教科もありましたが、工業系の授業が主軸となっていました。工業数理や実習の授業態度が成績に直結するため、自然と工業系の科目に力を入れるようになりました。


部 活

 そんな学校生活を送る中、僕は部活も道場もほぼ行かなくなってしまいました。しかし、高校総体の時期になると、空手部の同級生から「大会には出てくれ」と頼まれることがありました。練習をしていないにもかかわらず、大会に出場することになり、道場にも通わなくなったため昇段試験を受けていない僕は、ずっと白帯のままでした。それでも、見た目は白帯ながらも個人戦では勝つことができました。ただ団体戦としては勝利を収めることはできませんでした。
 道場での厳しい練習や何年も空手を続けている先輩たちとの組手に比べると、高校生同士の試合はそれほど難しくはなく、道場での経験が役立ちました。しかし、練習を続けている強豪校の同級生にはやはり敵わず、県大会で優勝する同じ道場の門下生の姿を見て、自分の力の限界を感じました。それでも、学校生活の主軸は工業実習とアルバイトでした。
 
 そんな中、同じクラスの「HN」という友人から「ある文化部に入ろうよ」と誘われたのが始まりでした。「HN」は運動部に所属していたものの、家が遠いため1年生の時に退部していました。僕は空手部に所属しているため文化部には興味がありませんでしたが、「HN」からその文化部の話を聞いて面白そうだと感じ、2年生の初めにその部活に入ることにしました。
 その文化部には同じクラスの「HN」「KON」「KIN」「MT」という5人で同時に入部しました。機械科の「熊さん」という先生が顧問を務める「エンジン部」でした。このエンジン部は、僕の高校生活の思い出の一つとなりました。「熊さん」は、教員免許を持っていないという噂がありましたが、実際には定時制の先生をしながら資格を取得したという話でした。今でも本当かどうかはわかりません。エンジン部の活動内容は「原動機のあるものを作成する」「熊さんが作りたいものを作る」というシンプルな内容でした。
僕たちがエンジン部に入部したのは、純粋に「熊さん」と何かを作りたいという思いがあったからでした。エンジン部の目標は、秋に開催される工業祭への出展でした。工業祭とは、普通高校で言うところの文化祭や学園祭的な行事で、1年生の時には上級生たちの熱気に圧倒され、ほとんど参加できませんでした。
 6月になり、エンジン部として工業祭に参加するために、「何か作らなきゃダメだから、何作りたい?」と「熊さん」から話がありました。当時、僕たちはバイクに非常に興味がありましたが、県の条例でバイクの免許が18歳からしか取れなかったため、購入することを諦めていました。そこで、自分たちでバイクを作ろうという話になりましたが、「熊さん」は「もうバイク作りたくない。だって毎回同じことを言われて毎年バイク作ってきたんだもん。飽きちゃったよ・・」と言われ、僕らは「だったら最初から何作りたいか聞くなよ!」と総ツッコミでした。代わりに4輪のゴーカートを作成することに決まりました。
 フレームは鉄パイプで作り、エンジンは「熊さん」が調達してきた2ストロークのものを使用しました。部品は、ネコ車と呼ばれる一輪車のタイヤ4本と、駅のホームにあるような一人用の椅子、廃車からもらってきたハンドルなどを組み合わせました。そして、これらを溶接やボルト止めで組み立てていく作業が始まりました。
 最初は各担当を決め、エンジンの取り付けやシャフトの連結などの作業が行われましたが、フレーム担当となった僕は言われた通りに溶接するだけでした。しかし、実際に時間があるのは「HN」と僕だけで、他の部員は部活が忙しくてほとんど作業に参加できませんでした。夏休みに入ると、僕はハンバーガー屋と郵便局のアルバイトを掛け持ちし、友達との飲み会もあり、ほとんど作業を「HN」と「熊さん」で進めることになりました。
夏休みが終わりに近づく頃、5人全員が集まり、ラストスパートでゴーカートの組み立てが進みました。夏休み明けの初日の工業実習で、なんとかゴーカートが完成し、工場でエンジンをかけて2~3メートル動かすことができました。その瞬間、僕たちは少し感動しました。

試 走

 完成したゴーカートをしっかり走らせたいという思いが湧き上がり、僕たちは試走を行うことにしました。学校には100メートル×100メートルほどの広い中庭がありましたが、もっと長く走れる場所があることに気づきました。それは200メートルの長い廊下でした。工場から手押しで廊下までゴーカートを運び、「HN」が最初に乗ることになりました。もちろん僕らだけで「熊さん」もいません。
「どのくらい踏んでいいのかな?」と「HN」が尋ねると、全員が「Maxだべ!」と声を揃えました。エンジンをかけ、期待に胸を膨らませてアクセルを踏み込んだその瞬間、事件が起きました。一輪車のタイヤがツルツルの廊下で滑り、なかなか前に進まず、マフラーから2ストオイルをまき散らし、甲高い爆音が廊下と工場に響き渡ったのです。
 その音に驚いた先生たちが工場から駆けつけ、僕たちはこっぴどく叱られました。「熊さん」も科長に怒られていました。結局、ゴーカートを爆走させることは叶わず、悲しいことに工業祭の展示品として展示されるだけの存在になってしまいました。


修学旅行

 当時の僕の学校の修学旅行が変わっているのか、他の工業高校も同じような内容なのか今でも疑問ですが、科によって行き先が全く違いました、日程も微妙に違いました。
まずは建築科とインテリア科の1GP、機械科と土木科の2GP、そのほかの科の3GPの3つのGPに分かれます。1GPは女子が多く、2GPは男子のみ、3GPは8:2で男子が多いGPになり、1GPと3GPは同じ日程で進んでいきます。

 さて、2GPの1日目の目的地は岡山でした。旅のしおりで「三菱自動車工場見学」と記載されており、それを見て「なぜ?」と思いましたが早朝の新幹線で東京まで行き、そこから乗り換えて岡山へ行くことになりました。お昼過ぎには無事に岡山に到着しました。
誰が決めたのか、当時三菱自動車が日産自動車の「GTO」に対抗して製作した「FTO」という車がありました。この「FTO」の自動車工場を見学しに行くことになっていました。もちろん土木科の生徒は全く興味がありませんし、機械科の生徒も数名しか興味がありませんでした。たぶん「科長」や先生たちが見学したかったのでしょう。この工場見学をした後、岡山の市街地のホテルに宿泊したのですが、僕らが岡山に出発する2~3日前に、岡山市内で暴力団による発砲事件があり、外出は禁止となりました。
1日目は、たいして興味もなかった自動車工場の見学とホテルの屋上でタバコをふかして終わりになりました。後で知ったのですが1GPと3GPは1日目から大阪市内で観光、宿泊し、夜も市内に出ることができたそうです。

 2日目の朝、バスに乗り瀬戸大橋を見学に行きました。2日目は土木科の生徒のための見学です。ただ、この見学は説明などもなく、瀬戸大橋を渡り切らずに途中の島のパーキングでバスを停車させ、下から橋を眺めるという謎の時間があり、その後Uターンして岡山に戻るという内容でした。そしてバスに乗ったまま神戸に向かいます。神戸に到着するとバスは六甲山へ登っていきました。その時は時間にして40分から50分くらい車で登ったと記憶しています。六甲山展望台からの景色を眺め終わりバスで5分ほど走ると、今度は六甲山の山中にあるロッジ風の施設に到着しました。ここが2日目の2GPの宿泊施設でした。車で40~50分の距離とわかっていたので誰も下山を試みることもなく、大広間に敷かれた薄い布団で寝るのを余儀なくされた2日目は、午前中に橋を眺め、午後は山から景色を眺め、夜は山の中でタバコをふかして終わりました。後で知ったのですが1GPと3GPは神戸市内のなんとかリバーサイドホテルというところに宿泊し、夜も外出ができたそうです。

 3日目の朝、バスは六甲山を下山します。向かうは京都です。この日は午前中から京都の二条城などの寺社仏閣を巡りました。この3日目は1GP、2GP、3GP全てが揃い、これぞTHE修学旅行といった感じの1日を過ごしました。夕方になり集合場所からバスに乗った僕らは京都駅に向かいますが、駅に到着すると、なぜか1GPと3GPはいませんでした。不思議に思いながらも「旅のしおり」に書いてある夜行列車に乗り僕らは地元に帰りました。到着は次の日の早朝、1GPと3GPはもちろん帰ってきていません。先輩たちによる過去のお行儀の良い素行のおかげで、学校側からの徹底管理されたスケジュールのもと、地元の不良たちに絡まれることもなく、問題に巻き込まれることもなく僕らの2泊4日の修学旅行は無事に終わりました。後で知ったのですが1GPと3GPは3日目も京都市内に宿泊し、夜も外出して4日目の朝に京都を出発して夕方に新幹線で帰ってきました。
この違いの真相は数週間後にわかるのですが、瀬戸大橋も開通から数年しか経っておらず、まだ目新しい建築物だったのと、FTOは発売されたばかりということで学校側の誰かがこのプランを提案したそうです。この岡山の倉敷まで行って大阪方面に帰ってくる旅費が他のGPに比べると思ったより高額になってしまったため、宿泊費も削られ3日目に帰ってくることになったそうです。

スノーボード

 この高校2年生の冬はこれまで準備してきたこともあり、スノーボードに熱中しました。ここまでアルバイトをしていればシーズン券を買えると思っていたのですが、友達のライブの打ち上げなどの飲み会に思いのほかお金を使ってしまい、結局シーズン券は買えませんでした。
僕の家から歩いて15分の駅にスキー場への無料シャトルバスが運行されていました。始発が9時ちょうどでスキー場に到着するのが9時45分から10時、スキー場のオープンが8時30分なので、このバスを使うと一発目のパウダーを滑ることはできませんでした。
 どうしてもパウダーを滑りたい場合は7時に家を出て長靴を履き、ブーツやグローブ、カップラーメンと母ちゃんが作ってくれたおにぎりなどをリュックに入れてスノーボードを担いで歩いて駅に向かい、7時20分発の電車に乗りスキー場の最寄り駅で降ります。そこからタクシーで初乗りワンメーター500円前後でスキー場へ。到着が8時過ぎくらい、そこから準備をして回数券3枚分でゴンドラに乗り山頂へ。
 ドカ雪の予報の時はこのスケジュールで滑りに行っていました。それ以外の時はシャトルバスです。このころスキー場にハーフパイプとスノーボードパークのエリアが設けられました。パークには80年代か70年代のアメ車がジャンプ台として設置され、複数のベンチやレールなども設置されました。毎日パークでエアーを練習していました。「HN」か「TYA」といつも行っていたのですが、学校が一緒の「HN」と行く回数の方が多かったです。ものすごく楽しくて夢中になりました。毎日海外のスノーボードのビデオを見て研究しました。お金が無いので滑っては歩いて登りを繰り返し研究したことを何度もトライしました。そのおかげでだいぶタフになりました。
 実習以外の曜日はほとんどスキー場へ行っていました。つまり週4日で朝から夕方までスキー場へ入り浸り、帰ってきたらアルバイトをしにハンバーガー屋さんへ行き、週末はライブの打ち上げに参加する。というあまり良くない高校生活を送っていた時期になります。冬はアルバイトをしないと決めていたのですが、やはりなんだかんだとお金がかかるのでやめることができずアルバイトは続けていました。今では理解がある親に本当に感謝しています。その甲斐もあって、地元の大会に出場することもできエアーの部で入賞もすることができました。
当時の地元では高校生で入賞できるのは僕と「HN」と、もう一人いるかいないかくらいで、僕の自慢の一つになりました。 
 
 
こうして2年生の冬が終わり、高校生活最後の3年生を迎えることになります。それでは次回【高校3年生編】で。

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