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日々、動きながらも、変わりつつあるもの。


ハイスピードで回る棚とは別に、日常化の幸せにうっとり。

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よく見るコンビニの、冷蔵棚。ペットボトル、缶商品が並んでいますが、みなさん、どのくらいの頻度みていますか?こちらは12月7日(月)の棚です。

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実は同じコンビニなのですがパッと見、置き場所が「変わっている商品」と「変わっていない商品」がわかると思います。(ちなみにこちらは12月9日の棚です)

まず上段2段に「新商品」のPOPが掲載されています。その2日後、また新しい商品が棚に並べられ、それまで「新商品」のものは、それぞれのカテゴリー(炭酸、清涼飲料水、お茶、水など)に振り分けられていますね。

例えば、僕は1枚目の写真で「MUSE(キリン)」と「ゆずスパークリング」、そして「いろはす炭酸(ぶどう)」を購入しました。そしてその2日後、「MUSE」は現状維持、「ゆずスパークリング」は上段真ん中に移動、「いろはす炭酸(ぶどう)」は、2段降格して、水の棚に配置換えになりました。

そして2枚目新商品に「おーい抹茶」「ファンタ」が初登場、「KIRINフルーツポンチ(再昇格)」しています。

とここまで書くと「それって、外国人(よくコンビニは外国人の人が多いので)スタッフが空いてる棚にガシガシ入れてたんじゃないの?」ってありますが、なかなかそうはいかないです。(いってないと思っています。)

けれど、僕が購入した3商品は、今度はいつまで棚にランクインするのかは、また1、2日後の状況によりけりですね。

コンビニの棚は、毎日、毎週、いろんな商品が「出たり入ったりします」。もちろん「あのお店にはあったのに、ここにはない!」「この地方では、こんなもののあるのか!」と一喜一憂する場所です。こんなにコンビニが身近になったことと、それを飽きさせずに「日常化すること」の素晴らしさを、常日頃思う、幸せであったりします。

さくらタウンに行ってみた

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そういえば、先日、東所沢市にできた「KADOKAWA さくらタウン」にお邪魔してきました。隈研吾の建築で有名となっておりましたが、クールジャパンというお題に対して、KADOKAWAが示した回答を見たという印象です。具体的にいうと「商業施設には馴れてない」という印象です。(むしろ隈研吾、いや隈研吾事務所は頑張ったという印象、経験と実績でしょうか)

その「馴れていない」こととして、(商業施設について書くと書ききれないので、置いておくとして)ちょっと気になったのは、建築の「収まり」の部分でした。隈研吾(事務所含む)がそうしたいというより、そういう収まりでしか表現できなかった「設(しつら)え」と工法です。

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鳥居が電飾化しているのですが、その黒い配線についてです。このディレクションはなぜだったのか。僕の興味はそこでした。「切られるのではないか?苦笑」とか「そもそも見せたくない」とか「これこそ、クールジャパンで表現したい所作だ」ったのか。しかも配電盤が露出しているので(カバーで隠れていますが)、これは雑だったのではないかと危惧する雰囲気。それが、KADOKAWAの施設で散見したので、「馴れてない」という言葉を使いました。新しい表現をしたい場所だからこそ、それぞれの箇所で、思い切った「共感・共有が必要」だと、思っています。

とはいえ、最初のコンビニの棚と、さくらタウンの話は、わけが違うのではなく、見ている僕からすると、似たような現象が起きていると感じています。

日々動きながらも変わりつつあるもの。

商品やお客さんは、毎日変わります。時間も経てば成長もするし老化もします。けれど、棚と隈研吾設計建築物は、変わりません(もちろん経年劣化はあります)。その時間に対する「老い」について、僕らの取捨選択のレベルを自ずと上げていかなかくてはならないし、己のレベルアップだけでは、ハードルの高さについていけない世の中になっているのは確かです。

特に、飲食店も一緒だと思います。例えば神田にお店を出したとします。お店は、新装オープンの日から「老いて」いきます。ただ出す料理はラーメンである限り、ラーメンをビルドアップしながら成長していくことには大変な労力が必要です。

そして(最近ここがキモだなと思っているのですが)その場所、立地で5年、10年、15年やることの実績は計り知れないという素晴らしさと、リスクは、日々訪れます。同じ場所でどんなファンを獲得するか、どんな料理を提供していくのか。料理、サービス、情報発信、人材教育、総務諸々。その場所で経験したことは、誰も真似できないし、同じ場所で同じことをする人は、はっきり言って、いません(不可能)。だからこそ、このコンビニで、この東所沢で、ものを売る、体験してもらう、ということがどんなことにつながっているかがわかる、そんな接点・場であると考えています。

一方、5年、10年、いや20年というスパンくらいで考えると、今まで思って見たことがないような展開を見せたりします。(なにより、そこから20年生きていたことにまず感謝ですが)だから僕は、たとえば20歳から20年以上経た40いくつかの、今の年代を楽しんでいます。なにより自分自身が「日々、動きながらも、変わりつつあるもの。」であるから。

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