魂的なものを見いだしがち
思考が新型コロナに侵されている。
週末の夕方になり、しばらくイベントごとは中止ですという通達が出て対応に追われる。来月末は保留になっているがこの分だとダメな感じだ。何か月もかけて準備してきたことがふいになるのは哀しいし、対応が終わったら、暇だ。しょうがないけどねー。
すっかり侵されきり、普通の予定も敢行できなくなるのではと気持ちが焦る。それで慌てて東京国立博物館に向かった。ポスターが最高に良い「出雲と大和」だ。
先日講演を聴いたのはとても意味のあることだった。というか、展示というのはとても説明が端的なのだな。いつも漫然と見て気にしていなかったが、盛り込みたい情報を削りに削る苦労がしのばれる。
ひとまず会場に入ってすぐ展示してある出雲大社の柱で泣く。ずいぶん長いこと気付かれず足元に埋まっていたのですねこんなにでかいのに。
それから時代が進み(と言ってもせいぜい平安)主に仏教に転換した展示室でも、特に飛鳥辺りの静謐な仏像に対して、よくぞここまでご無事でと、過剰な労りを覚える。
一方銅剣とか銅鐸にはさほどの感慨はなく不思議だ。とはいえ、時々群馬辺りの古墳に連れていってもらうので、比べて内容が豪華だなーということをしみじみ思った。金持ちでも出雲大和と地方豪族では全然身分世界が違うんだな。
この間の講演で、今回展示している中の石仏は、もう持ってこられない最初で最後かもしれない、と聞いたのでよくよく見てきた。かつては漆と金箔で覆われていたらしく、最近作ったみたいに綺麗だ。そして顔立ちは隙があって和む。自治体の人たちが守ってきたと聞いているので、その辺りがよく感じられて良かった。
何か記念に買おうと迷いに迷った末に結局図録を買った。こうやって捨てづらいものを増やして悩みがちだ。