あじさい
なぜあじさいが好きなのだろう。
「好き」に理由なんかないと思う反面、ある程度理屈でも説明できるのではないかとも思う。
花の淡い色彩、湿った空気の時期に咲くこと、町のあちこちに鎮座して景色のひとつになっていること……。あえて理由をつけるとしたらそんなところだろうか。
小学生の頃、あじさいの「花」は真ん中の小さな点にしか見えない部分で、色づいて大きく広がっているのは「ガク」なのだと両親に教えられてすごく驚いた。そしてそれを、一緒に通学していた友人のみきちゃんに話した。なんと、みきちゃんは「そんなわけない!!この大きいのが花!!」と言い張って聞かなかった。私は動揺し、喧嘩になった。私もみきちゃんも帰宅してすぐ親に聞き、私は「え?ガクって言ったじゃん」という回答を胸に次の日も登校した。みきちゃんと顔を合わせると「ガクなんてない、花だと親が言っていた」と言われた。もうここから先は覚えていない。また喧嘩したのだろう。みきちゃんとはいつも泣くまで争った。泣いてもやめなかった。喧嘩せずに帰れたことが1度しかなかった。毎日毎日喧嘩していた。喧嘩するほど仲がいいとか言うこともあるが、そういうわけではなく、ただ仲が悪かった。家が近いから一緒に登校しているだけだった。なんの話だ?あじさいの話から思い出した、話が通じない人間の話か。みきちゃんはどうしているだろうか。あじさいとみきちゃんの記憶が脳内でリンクしすぎていて、あじさいといえばみきちゃん、と脳が認識している。そして思い出す度に少しつらくなる。
そんなことがあってもあじさいが好きで、わざわざ見に行くこともある。閉園が決まったとしまえんのあじさい園に行った時は財布を忘れたな……とか、鎌倉に見に行った時はすごく暑かったな……とか、記憶としっかりリンクしている。
あじさいを曲にしたこともある。
中学の頃、学校にこなくなってしまった友人スズの家の前にあじさいが植えられていて、前を通る度に立派なあじさいが迎えてくれた。そのあじさいは、スズには滅多に会えなくて寂しいという気持ちとリンクするようになってしまった。スズは学校にはこられないだけでフリースクールには通っていたし、学校の通常授業の時はいないが、行事には参加していた。そして私と楽しく喋ってくれた。普段、寂しいよー!と思いつつ、学校にきてよという文章は大変おこがましいと子供ながらに理解していた私は、なんでもない日記のような文章を書いてはスズの家のポストに入れた。それでも鬱陶しいと思っていたら嫌だなと思いつつ、よく遊んでたじゃん!!寂しいんだよ!!という気持ちを、淡々と伝える日常に置き換えた。そして、大丈夫だよと伝えるように、行事に参加する時にはなんでもないかのように楽しく喋ってくれた。
スズのことを私は曲にした。私がシンガーソングライターとして歌っていることはおそらく知らない。スズとくだらないことを話したり、木に登っているのを眺めるのが好きだったな、というだけの曲。
スズも、今どうしているのか知らない。すっかり大人になった今でも、スズの家には丁寧に手入れされたあじさいがこの時期になると町に彩りを与えている。
そんな記憶たちが一気に押し寄せるこの季節、考えることが少し多いな。