或るタイ人男性の選択肢

「他に選択肢がありませんでした」
そのタイ人男性は俯きながら答えていた。
出入国管理及び難民認定法違反。彼が起訴されていた罪名だ。2週間の短期滞在ビザで来日し、その後ビザの更新をすることもなく約1年半の間日本に滞在を続けていた。そして上野駅近くを歩いている時に職務質問を受けてオーバーステイが発覚し現行犯逮捕となった。


彼が来日した理由は働くため。
金が必要だった。
タイで同居していた両親は体調を崩しがち。そしてなにより、息子が心臓を患っていた。治療には莫大な金がかかる。それは建築関係の仕事に就いていた彼にはとても捻出できない額だった。
それでも何とかしなければいけない。両親のため。息子のため。金、金、金…。必死だった。だが、努力でどうにかできる話ではなかった。
そんな時、彼はブローカーに出会ってしまう。
「日本で働けば稼げる」
はじめはその言葉を信じなかった。そうやって甘い言葉に騙されて日本に行った人たちがどうなったか、そんな話は何度も聞いたことがあった。日本という国の悪評はタイでも知れ渡っているのだ。
しかし彼は追い込まれていた。
両親を、息子を、病院に連れていかなくてはいけない。薬代を稼がなければいけない。そして今、それらを稼げていないという現実があった。
ブローカーは身なりも話し方もきちんとしていた。彼が日本に送り出した人はみんな稼いでいる、とも話していた。
信じられない。でも信じるしかない。他にすがる藁はなかった。
「他に選択肢がありませんでした」
彼はブローカーに仲介費用を支払った。およそ彼の年収と同額の大金だ。なけなしの貯金と、それで足りない分は兄弟や親戚から借金をしてかき集めた。
「日本に行けばそれくらいの額はすぐに稼げる」
その言葉だって本当は信じていたわけではなかった。でも信じる、信じなければいけない。疑う心に無理やり蓋をした。


3年間の在留資格を取っておく。ブローカーはそう言っていた。在留資格がたったの15日間だと知ったのは来日した後だった。だが、日本に入国してからはブローカーとは連絡が取れなくなっていた。
騙された。
そう思った。いや、ブローカーに会った時から騙されていることは薄々勘づいていた。でも一縷の望みにかけるしかなかった。タイにいてもジリジリと追い込まれていくだけだ。何かを変えたかった。変えなければならなかった。
ひどく疲れていた。出口の見えない迷路の中で彷徨うことに疲れていた。その状況から逃げたかった、そんな想いもなかったとは言えない。限界だったのだ。だから、騙されていることがわかっていても信じることを止められなかった。悔やんでももうそこは遠い異国の地、すでに仲介費用だって払っている。後戻りはできない。他に選択肢は、ない。


日本に来てはじめに連れていかれたのは郊外にある「パチンコの部品を生産する工場」だった。
ブローカーが言っていた「工場の仕事をしてもらう」という言葉は真実だった。
狭い寮をあてがわれた。個室ではなく同居人が2人いた。来る日も来る日も朝早くから工場に出かけて夜遅くまでパチンコの部品を作り続けた。周りにいるのは自分と同じような東南アジア系の顔立ちの男ばかり。日本人は1人もいなかった。同じタイ出身の者もいたが、大半は言葉が通じないどこかの国の出身の者だった。
「日本に行けば稼げる」
はじめの月は給料が未払いだった。1日の食事は寮で出される粗末な夕食のみ。どうしても空腹に耐えられない時は同僚に頼みこんで食事を摂らせてもらっていた。
「ここに来る人はみんなそうだったから。自分もそうだった」
快く彼らは食事を出してくれた。田舎にある工場の周りにはタイで使っていた食材の専門店などない。それでも彼らはうまく工夫してタイの味を日本で再現していた。
2ヶ月目。今度は給料が出た。寮費などを差し引かれた上で渡されたのは3万円。
「日本に行けば稼げる」
3万円。バーツにすればだいたい7500バーツ。
工場長も「長く働けば少しずつ給料は上がる」と話していた。それはそうなのかもしれない。でも7500バーツは彼がタイで稼いでいた月給をはるかに下回っていた。周りの同僚も騙されてきた口だ。「他に行くところがないから」と話していた。
でも彼は金が必要だった。切実に金が必要だった。
両親を助けてあげたかった。息子を治してあげたかった。幸せになりたかった。
食べるのもやっと。1円も送金できない数ヶ月を経て、彼は寮を抜け出した。その数ヶ月の間に何人もの同僚が脱走していた。そしてそのたびに新しい人間が補充された。その中には、やはり日本人はいなかった。

パチンコ工場から逃げ出してからは、SNSで同郷の者を探しその人の家を転々とする生活になった。
在留期限はとっくに切れている。家を借りることもできないし、安定した職を探すこともできない。
ただ、その日1日を凌ぐだけの生活。
仕事はタイ人コミュニティの中で紹介されたものをやっていた。それは主に解体の仕事だったが、各地を転々としながら何でもやった。
他に選択肢がなかった。
もう帰ろう。もちろんそれは何度も考えた。そのたびに両親と息子の顔が浮かんだ。
帰れない。帰るわけにはいかない。
解体の仕事はキツかった。でもパチンコ工場にいた頃と比べればお金を稼ぐことはできるようになった。だんだんタイに送金もできるようになった。
このままやるしかない。言葉も通じない、文化も風習も違う国にいることはもちろん辛かった。帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい…。
その想いは押し殺し続けた。家族のために金を稼がなければいけないからだ。

ある日、張りつめていた気持ちが切れた。
母が亡くなった。
体調を崩しているのは知っていた。元より健康状態はよくなかった。心配もしていた。だが、大丈夫だと自分に言い聞かせた。大丈夫であってほしかった。また会える、きっと元気な姿の母にまた会える日が来る。そう思っていた。
人はなぜ、喪ったあとでないとその存在の大切さに気がつかないのだろう。
母の訃報を受けてからすべてが虚しくなった。壁を壊すこと、天井を破ること、水道管をねじ切ること、ガラを運ぶこと、なんのために自分がこんなことをしているのかわからなかった。
何のために 何を求めて 傷つき疲れ 年老いて死ぬのか
日本に来てから何度か聴いた歌の歌詞が巡る。日本に来てから友人になったベトナム人がよく聴いていた曲だった。日本語はよくわからないままだったが、そのベトナム人はその曲を聴いていつも泣いていたから哀しい歌だと理解していた。
帰ろう。家族に会いたい。もうこの場所にはいられない。
飛行機代もなかった。そんなお金があれば送金していた。当てはなかったがとにかく入管に行こうと決めた。入管について良い話など聞いたことはなかったしどうなるかはわからないが、きっと入管に行けばどうにかなる。
その決意を固めたのは逮捕される5日前のことだった。
品川の入管に行こうとして、上野でJRに乗り換えをしようとしていた時に彼は職務質問を受けたのだ。


「タイに帰ってからはまた以前やっていた建築関係の仕事をしようと思っています。今はもうタイ以外の国に行きたいとは思いません」
オーバーステイが犯罪であることはずっとわかっていた。
他に選択肢がなかった。
選ぶことさえできずに流され続けた。抗うことなどできなかった。でも、流されたその先に幸せがあると思っていた。思いたかった。
もう母に会うことはできない。後悔しかなかった。どこかで何かが違っていれば違う結果があったのだろうか。考えても考えても答えは出ない。
「今はただ、家族に早く会いたいだけです。日本には…もう二度と来ません」

彼が逮捕されたのは2月末。
調べてみたら東京では雪がちらついていた日だった。
彼の裁判が開かれたのは5月。
逮捕された日とは打って変わって、春らしく暖かい空気に包まれた日だった。

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