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パンチとスケベ椅子

今日もまたパンチがスケベ椅子に座って何かをごちゃごちゃやっている。

ぼくは学生の頃、神楽坂にあった出版社の倉庫でバイトをしていた。その倉庫は神楽坂の駅を出てから教会の脇を通ってテクテク歩いて10分ほどの場所にあった。牛込警察署のすぐ隣という立地である。そこで注文に応じて書籍を書店や取次に送ったり、もしくは逆に倉庫に戻されてくる書籍を所定の場所に積んだり、そんなことを日々やっていた。パンチはそこにいた社員で、小柄なおっさんであった。彼の名前は思い出せないが、そのヘアースタイルから単純に「パンチ」とあだ名をつけられていたことは覚えている。我々バイトは面と向かって話す時(めったになかったが)にはちゃんと名前を呼んでいたが蔭ではいつも「あー、パンチうっぜえわ」とパンチ呼ばわりして悪口を言っていた。
パンチが何の仕事を司りどんな業務をしていたのかは知らない。知らないがいつも倉庫の片隅でそこら中から本を集めてごちゃごちゃ忙しそうにしていた。そのごちゃごちゃの最中、パンチはいつも「スケベ椅子」と呼称されるあの特殊な形状の椅子に座っていたのだ。
「あの椅子、どこで売ってんの?」
「パンチはどんな経緯で何を思ってあのスケベ椅子を入手したの?」
「入手したのはいいとしても、それを職場に持ち込みしかも愛用するその感性って何?」
と謎は深まるばかりだったが、誰一人としてパンチにそれを確認する者はいなかった。みんなパンチが嫌いだったからである。明確な嫌う理由があったわけではない。ただなんとなく嫌いだったのだ。
スケベ椅子というのは文字通りスケベなことをしてもらう分には都合がよくできている。後年、ぼくも正しい使い方(?)でスケベ椅子に座る機会を得たわけだが、その際は「おほっ♡」みたいなキモい声を挙げつつなすがままにされていたものだ。正規の使い方なら人を悦ばすこともできるスケベ椅子だが、作業用の椅子としてはあまり適しているとは思えない。しかしパンチはいつだってスケベ椅子で頑張っていた。


先日、仕事でとある郊外の街を訪れた。その街にはとりわけ大きな商業施設などもなく、仕事終わりの夕刻から夜へと向かう時刻には人通りもまばらであった。灯りはまばらに街頭があるばかり。薄暗い歩道をトボトボ歩いていた時のことだ。歩道上に白いプラスチック製の何かが転がっているのが見えた。ぼくの進行方向にそれがあるのはずいぶん前から気がついてはいたが、特に気にも止めることはなくずんずんそれに近づいていった。ちょうど街頭の真下にあったそれのすぐ近くまで来て、その白いプラスチック製品がスケベ椅子だと気がついたのだ。気がついてから頭に浮かんできたのが、過去に訪って一泡吹かされたお風呂屋さんやそこにいた女性のエッチな姿態ではなく、薄汚れた作業場を着込んだパンチの後ろ姿だったことはなんだか少し残念に思う。
神楽坂の倉庫はぼくがバイトを始めてから2年後くらいに閉鎖になった。そこに勤めていた社員さんたちはみな他の場所に異動になったり大手町にあった本社に戻っていったりした。そして太っ腹なことに、親会社は倉庫にいたバイトくんたちにも関連会社のバイトを紹介してくれたりした。バイトくんはみな、条件面や何やかやで紹介してもらったバイトに移ることはなく、各々が自分で他のバイトを探したりしていた。面倒くさがりのぼくはまたバイトを探す労力を惜しみ紹介してもらったバイト先にのうのうと潜り込んだ。それは大手町の本社での小間使いで、基本的には何もやることはなくずっと控え室で本を読んだりしているだけの楽ちんバイトだった。


その大手町での楽ちんバイトをぼくはすぐに辞めてしまった。半年もいなかったように思う。楽すぎるというのも楽ではないのだ。だが、本社にいた分、倉庫にいた人たちのその後の情報なんかも漏れ聞こえてくる。
そこで聞いた話によれば、パンチは倉庫の閉鎖とともに会社を辞めたらしい。辞めた、というかは半ばクビみたいな感じだった。パンチの居場所は関連会社のどこにもなかったのだ。パンチ自身、定年間際だったこともあってまた新しい環境で新しい仕事をする気にはならなかったみたいだ。
来る日も来る日もスケベ椅子に座って黙々と何かをしていたパンチ。バイト連中からは嫌われ、社員さんとも特に心を開いて仲良くしてたような様子はなかった。何をしていたかもわからないんだしバイトでしかなかったぼくが何かを言えるわけでもないのだが、おそらくパンチがやってた仕事なんて別に大したことではなかったように思う。そんな日々をぼくが知る前からパンチはずっと過ごしてきた。20歳そこそこのドガキであったぼくにはわからなかったが、そこには敬意を表すべき何かがあった。人生があった。


郊外の街で打ち捨てられていたスケベ椅子はあちこちに細かい傷みたいなのが付いていたし、脚も一本曲がってしまっていた。これはもう控えめに言っても元スケベ椅子でしかないし、はっきり言ってしまえば役目を終えたただのゴミだ。
この椅子にはどんな人たちが座っていたのだろう。用途がかなり限られる椅子であることは事実なので、そういったお店できちんと使われていた可能性が高い。でも、ひょっとしたらパンチパーマの冴えない社員が作業用の椅子として使っていたりしたのかもしれない。
横倒しになっていた椅子を立ててみる。脚が一本折れ曲がっているだけだ。安定性はないだろうしここに誰かが座れるとも思わないが、スケベ椅子はちゃんと立った。
陽はすっかり沈み、完全に夜になっていた。暗闇の中に白く浮かび上がるスケベ椅子の姿は、なんだか少し誇らしげに見えた。

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